25歳、春(9話)
やっぱり——来なければよかった。
天気が良かったからいけないんだ。もし天気が大荒れだったら、そもそも来る気も失せて実家になんて帰ってこなかったのに。電車が、停まらなかったのが悪い。通勤時にはいつも簡単に遅れをとるくせに。
油断した自分が悪い、動揺してる自分が悪い。ぜんぶ……ぜんぶ、なにもかも自分のせいだ。
帰ろう。一刻も早くこの場所から消えていなくなりたい。
『おめでとう。』とか『お幸せにね。』とか。そんな祝福の言葉のひとつも投げ掛けてあげられなかった。古くからの知人が結婚をするなんて、とても、とても幸せなことなのに。
『 ただの幼馴染だよ。』
私はなんて、気の利かない��幼なじみ�≠ネのだろう……。
電車から見える景色が、どんどん人工的な物に移り変わる。それに伴い脳も冷静さを取り戻していき、先ほどの出来事が非現実ような遠い過去のことのような、なんだか自分でもよく分からない感情にさえなって来た。それでいい、むしろ今はそれがいい。
都会の駅は、どこもかしこもガヤガヤと雑音が響き渡る。自身の今の騒ついた気持ちと張り裂けそうな心臓の音が掻き消されていつもはうんざりしていたのに今日は逆にこの雑踏にほっとする。そうこうしている内にアパートのある最寄り駅のホームに着いた。電車を降りたあとすぐに近くにあったベンチに腰を下ろした私はそのまま暫く、茫然としていた。
何の躊躇いもなく彼女を抱き上げた寿の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。あの手はいつも私に差し伸べられていたものだから。
寿が結婚、寿が結婚する。何度言い聞かせても納得しない自分がいる。だって、あまりにもたくさんの思い出を、寿とともに、育んで来たから。
「また会ったな」
ゆっくりと声のする方を見上げると、そこには藤真さんが立っていた。
私が乗って来た方角を見て「向こうに何の用事だ?」と言いながら一人分のスペースを空けて、藤真さんは私の隣に腰を下ろした。どうやら一緒の電車に乗っていたらしい。初めて見た藤真さんのラフな私服姿。彼も休みなのか、服装からして仕事では無さそうだった。
「どうした、いつもの元気は」
「い、いや……」
歯切れ悪く答えると「ああアレだ。例の、昔の男だ」なんて愉しそうに揶揄ってくる。かと思えば今度は「分かりやすい奴」と藤真さんは正面に向き直り穏やかに笑みを零したりするのだ。なんだか、本当に掴めなくて不思議な人だ。
「……藤真さんこそ、いつもみたいに貶してください」
私の弱った声に藤真さんがゆっくりとこちらを向いたのが分かった。私は自身の足元に視線を落とし込んだまま呟く。
「そしたら……気持ちよく泣けると思います」
「俺は、人前で泣く女は嫌いだ」
「……ですよね、」
力無く返す私に、藤真さんは少しの沈黙のあと珍しく優しい口調で切り出す。
「けど、何かを忘れるための涙なら悪くはないと思う」
ぽつりと呟いた藤真さんを見ると穏やかな顔で正面を向いていた。出会ってから数回しか会っていないけれども彼のこんな優しい表情を見たのは初めてのことだった。
「泣きたきゃ泣いたっていいんだぞ、見ててやるから」
「え……」
「ほら、よく言うだろ?どんなに辛い事もいつかは過去に変わるって」
藤真さんは、私と更に距離をそっと詰めて寄り添い、私の頭を優しく自身の肩に傾けてくれた。その藤真さんの意外な行動も相まって、先程からずっと押し殺していた真っ黒な感情が溢れ出てきて、一気に音を立てて崩れ堕ちる。胸の中いっぱいに溜まり切ったそれは止まることを知らずに、涙となって私の頬をつたう。
行かなければ良かった——。私は、藤真さんの肩を借りて、声を殺して泣き続けた。
*
「ご迷惑を、おかけしました……」
しばらくしてから二人で駅を出て歩道を歩いていた。思い切り泣いたら、少しすっきりした気がする。藤真さんに感謝だなぁ。
「あの、今度こそ、もう二度と会うことは……」
「二度とって言いながら三度も会ったな俺たち」
「……」
「まあ、最後のは偶然じゃないけど……」
「え?」と聞き返して、私は足を止める。藤真さんは私よりも数歩先を歩いていたが同じように足を止め、彼もこちらを振り返った。
「付き合ってみないか、俺たち」
「……、はい!?」
「俺と、付き合ってみないか」
��どんなに辛いこともいつかは過去に変わる�%。真さんの言葉が、脳裏をよぎる。泣き腫らした瞳で見たその先には真っ直ぐで偽りのない真剣な眼差しを私に向けている藤真さんの姿。
彼が、今の私にとっての��光�≠ネのであれば、その手を引き、想いを委ねることでこの絶望から抜け出せるのだろうか。
その日の帰り際——プライベートの携帯番号を伝えられ「連絡をくれ」と言い残した彼とはそのまま別れた。
人生の分かれ道——。人はそれを��分岐点�≠ニ呼ぶ。いま私は、確実にその��分岐点�≠ノ立っているに違いないと、追いつかない思考の中でも、本能がそう感じ取っていた。
*
週が明けて、またいつもの生活が始まる。気がつけば「付き合ってみないか」と告白をされた日からすでに一週間が経とうとしていた。私は彼にメッセージを打った。あのハヤシライス屋さんで会いたいです、と——。
仕事を終え店に入ると店員から「お連れ様からです」と小さな封筒を渡された。中を開けると、『仕事が入った。旨い手料理が食いたい』と達筆な文字で書かれていた。それと共に一緒に入っていたシンプルなシルバーの鍵。それは彼の自宅の鍵だった。まだ返事もしていないのに偉そうに、とは思ったけれど、何故か自然と笑みが零れた。緊張しながらも藤真さんの住む高層マンションに入ると、中は意外にも殺風景でシンプルな部屋だった。ご飯を作り終えて程なくしてからガチャとドアの開く音がした。
「お?ただいま」
「悪いな」と、私の存在に驚く様子もなく声を発した藤真さん。ほんと、女の人に手慣れている感が凄まじい。そのまま寝室らしき部屋へ、彼は着替えに向かった。
「あの、このあいだの返事……」
「返事?」
と、ドアを開けたまま向こうの部屋で着替えているであろう藤真さんが答える。
「付き合わないか、って返事、」
「ここに来たって事が、答えなんじゃないの?」
こちらに戻ってきて、私の言葉を割って言った藤真さんはそっと微笑んだ。呆気に取られている私に「とりあえず食べようよ」と、ダイニングへ誘導する彼。そして、一緒に食事をともにした。いや、これ……流されている、確実に。
食事中、先日はどこまで行っていたのかと尋ねられたので母親の墓参り、とだけ告げた。過去の細かいこと——母親の自殺や諸々まではさすがにまだ話せていないものの、母親がすでに他界しているということと、地元が神奈川であることは、この日に伝えた。母親が亡くなっている事自体は彩子たちにも伝えてはいるが、自殺した事実は、寿しか知らないのだ。
「藤真さんは?」
と、こちらからも質問返しをすると、淡々と、「実家が向こうで」と言っただけで彼もそれ以上深くは何も言わなかったので私もそれ以上深入りはしない方が良いと思い、その話は打ち切った。
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