25歳、春(8話)
�� 私は寿に聞きたいことがある ��
東京で働き始めて数年。地元を離れてからは、母の命日以外は帰ることのなかった生まれ育った街、神奈川。久しぶりに親しい友人に会ったからだろうか、不意に故郷が懐かしくなった。
今日はせっかくの休みだったというのに珍しく早くに目が覚めてしまった。顔を洗って、ご飯を適当に済ませる。早起き以外は平日と至って変わらない私の日常そのものだ。帰ってみようかな、そんなふうに素直に思えたのは母の命日以外では何年ぶりだろうか。
通勤時とは異なる電車に揺られ徐々に懐かしく映り変わっていく景色を眺めながら到着した見慣れた駅のホームには、今も変わらず赤いベンチが備えてあった。高校生だった頃に目にしていた、その赤いベンチの色は今やすっかり色褪せていて座ると今にも崩れてしまいそうな脆さが見て取れる。その赤いベンチを素通りして改札口を出ると懐かしい故郷の匂いに不意に涙が零れ落ちそうになる。
涙脆くなったのは、歳を取ったからだろうか。そんな自分自身を嘲笑う。この改札口には小さなコンクリートの段差があって、よく転んだっけ。
�� 学習能力が足りねんだよ ��
そんな声が、いまにも聞こえてきそうだ。
改札口を出た駅の目の前には小さな雑貨屋さんがあって。その隣にある昔から外観の変わらないタバコ屋さんも、まだ営業しているようだった。あそこのおじさんも、もう良い歳だろうに……。そのまま先を歩いて行くと古びたガードレールがある。この辺でいつも二人でアイスを食べたり、他愛もない話をした。そのガードレールを通り過ぎると、いつも寂しい気持ちになった。もうすぐサヨナラだなって。毎日学校で会えるのに。
もっと一緒にいたいな、そんなことをお互いに思っていたのだろうか、自然と二人の足が、自分たちの家の少し手前で止まって、いつまでもくだらない会話ばかりしていた。向こうは縁石に腰をかけて、私はその目の前にしゃがみ込んで。
さて……。この見慣れた景色を曲がると、もうすぐ彼の家が見えてくる。いつも手を繋いだまま自分の家は当たり前に通り過ぎて、その先にある私の家まで必ず送ってくれた。あぁ懐かしいな。
「——名前ちゃん?」
もうすぐ自宅に到着する、そんなときだった。聞き慣れたその声に振り返ると、私を呼び止めた声と共に、懐かしい面影。
「おばさん……」
その声の主は、たった今思い浮かべていた彼の母親だった。向こうも私だとはっきり認識するとパタパタと駆け寄って来て私の手を取り、喜んでくれた。そして私はここで気が付く。いま自分は彼の家の目の前に立っているという現実に……。
「久しぶりよね?実家に遊びに来たの?」
私は気まずくなって「は、はい…」と蚊の鳴くような声量で答えた。
「こんな田舎道に綺麗な人が歩いてるから誰かと思っちゃったわよ〜!」
動揺している私をよそに「また美人になってねぇ」なんて、彼の母親は大声で興奮している。
……どうしよう、激しく気まずいんですけど。
「……名前?」
ハッとして声のする方を見上げれば数年振りに見た、幼馴染の彼の姿がそこにあった。
「寿……。」
咄嗟に視線を彼から逸らすと彼の両手は車椅子を押していた。どうやら自宅の玄関から出てきたようだ。いつものルートを呑気に歩いて来てしまったのが運の尽きだった。きっと今日の朝のニュースの星座占いは、最下位だったに違いない。
あぁ、今朝テレビの星占いでラッキーパーソンでも見てくればよかった。何か回避できる助言があったかも知れないのに。
「……寿、ご紹介しなさい」
彼の母親がそう促すとすこし目を泳がせてからすぐに眉間にぐっと皺を寄せて「あぁ」と、ぎこちなくその口が開かれた。
「こいつ、なまえっていうんだ」
「初めまして、みょうじなまえです。」
彼のあとに続いて、明るく名を名乗る車椅子に座っていた彼女。とても品があってがさつな彼には似つかわしくない感じの、綺麗な女性だった。
「あ、名字……名前です……。」
動揺を見せてはいけない、心を読まれそうだったから。彼女の目が、そう訴えている『あなたは彼のなんですか』——って。
私はなんだか、胸騒ぎがした。バレないように冷静に。そう頭の中で平常心、平常心と、唱えていたので咄嗟に「はい!これ」と、彼女に自身の名刺を差し出してしまった。
あ、やってしまった。つい、仕事の癖で……!とは言え渡した名刺を返してと言うのも変なので私はとりあえず、淡々と仕事のそれのように自己紹介をし始める。
「私、雑誌の編集をしているんです。東京に長いこと居るから、こっちは久しぶりで……」
寿とは久しく会っていない。今日だって本当に偶然なのだ。そんな思いが伝わればと話を繋げた結果がこれだ。もう、会社の取引先の挨拶じゃないんだから。もっと自然体で堅苦しくない挨拶の仕方はなかったものだろうか。わたしはどうやらやはり、チャンスにもピンチにも弱いらしい。
「ありがとうございます!」
しかし、私の失態を気にも止めずにニコニコと彼女は私からの名刺を受け取ってくれた。そんな彼女を見てホッと胸を撫でおろしたのも束の間。
「ひさしとは、どういうご関係ですか?」
……!やっぱり、聞かれた——。首を傾げて、そう尋ねて来た彼女から、私はつい目を逸らしてしまう。ど、どういうって……。
「——ただの幼馴染だよ。」
……。幼なじみ——。
シンと一瞬張り詰めた空気を破ったのは、彼のその一言だった。その言葉に「幼馴染なんだ!」と、楽しげに彼に笑顔を向ける彼女。
「俺、こいつと結婚すんだ」
そう言って彼が、自宅前に停車してあった車の後部座席のドアを開けた。またシンと静まり返った空間にウイーンと虚しく車の扉の開く音が鳴り響く。そのままひょいと彼女を持ち上げ私の目の前を通り過ぎたとき私は咄嗟に視線を自身の足元へと落とした。何故だか直視できなかったから。
彼女を後部座席へと座らせると「墓参りか」と問う彼の声が聞こえた。私への問い掛けなのか、はたまた独り言なのか。なんかそんな感じの低い声のトーンで。「うん」とこちらも返事のような独り言のようなトーンで返した。気が付けば車のエンジン音がして、運転席の窓から「おやじにもよろしく」という彼の声が耳に届いたところで、ようやく私は目線を平行に保つ。それと同時に、「はいはい」と、彼の母親が手を振る姿も視界に入ってきた。程なくして車は走り去って行った。
彼の母親からの「名前ちゃんもまたね」なんて明るい声がぼんやり聞こえて来て、そのまま彼の母親も自宅の中へと入っていった。
動けない、足が……動かない。私の帰る家は、もうすぐ、目の前だと言うのに——。
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