25歳、夏(28話)
25歳、初夏
― 25歳、初夏 ―
あの日も背を向けて、涙をこらえて。彼と自分自身に誓った『頑張るから』と。もう彼がそばに居なくても一人で立てるように強くなるからと。
こんな選択をしたのは、紛れもなく私で——。学ラン姿もユニホーム姿も、部屋着も。短い髪も目つきの悪い瞳も、意思の強い眼差しも、あの、低い声も。私を包み込む大きな手も、腕も……。ずっと大切だった。そしてなによりも寿の笑った顔が、いちばん好きだった。
ごめんなさい。最初から最後まで、振り回してばかりで。憎んでくれていい……恨んでくれてもいいから。お願いだからずっとバスケットをつづけて。そしてずっと、笑っていてね。
好きとか、嫌いとか、大切とか。本当はそんな簡単なことじゃなくて。寿は私にとって、生きる理由だった。寿は私のすべてだった。それが私の寿への��伝えられなかった想い��——。
――――――――――――
寿を信じて離れずに
そして、どうかお幸せに。
末長く幸せでいてください。
名字 名前
――――――――――――
——なまえさん、
あなた、本当はなにを知りたいのですか。
それを知って、どうするの?
寿、わたし……本当のことなんて書けないよ。だって、私にとって寿との思い出はとても大切なものだから。もしだれかに話したらすべて消えてしまいそうな気がするから。もしかしたら寿も、同じ気持ちですか——?
ねえ、寿。
私たち、なんでこうなっちゃったんだろう。
私たち、どうして別れちゃったんだろう……。
25歳、夏
― 25歳、夏 ―
この日——私は藤真さんのマンションにいた。美味しいワインを貰ったとのことで藤真さんから自宅に来るよう誘いを受けたのだ。マンションに入るや否や目についたダイニングテーブルの上にあがっていた茶封筒とパスポート。すでに座っていた彼がワインのコルクを開けている姿を横目に席に着きながら、それとなく「出張?」と尋ねてみた。
「——いや、海外赴任。」
「とりあえず、二年ほど行くことになった」と藤真さんはとくに表情も変えず軽く告げてくる。私は驚いて言葉に詰まった。そんな私に気づいているのかいないのか、とくに言葉を発さない彼に対して再度、私から問う。
「……え、場所は?」
「ニューヨーク」
「い、いつから……?」
「再来月だ。」
え……。と、言うことは遠距離ってこと……?
固まる私に今度は「どうした?」と藤真さんが私の顔を覗いてきたので私は椅子から立ち上がり自身の鞄から藤真さんの自宅の鍵を取り出した。藤真さんはそんな私の動向を、不思議そうに目で追っていた。そうしてそのまま彼のマンションの鍵をテーブルの上に置くと「なんだよ」と珍しくすこしだけ困惑している様子の藤真さんに対して私は力強く「別れてくださいっ!」と告げた。
「わたし、遠距離恋愛をする自信ありません!」
「……」
「離れるつらさ、よく分かってますから……」
ぽつりと「二度としたくないんです」と言い、そのまま玄関へ向かうと「ちょっと」と藤真さんに腕を引かれて引き留められたので、たまらず、「藤真さんが好きです!」と叫んだ。その反動で掴まれていた腕が離され藤真さんが目を見開く。
「どこがって言われると……よく、わかんないんですけど……」
「はっ。それもそれで厳しいお言葉だな……」
「ご、ごめんなさい。でも、遠くに行っちゃうと思うと、なんか、すごく心細くて……」
藤真さんは何を思ったのかやや目を細めていただけだったけれど、私は追いつかない頭で咄嗟に「結構、好きなんだと思います……」と、素直に伝えた。それでも、いまなら間に合う。まだ……いまなら……。
「……引き返せるんです。」
「なんで引き返すんだよ?」
「……え?だ、だから、遠距離は嫌なんです!」
「なら、遠距離にしなきゃいいんじゃないか?」
「……はぁ?日本とニューヨークですよ?めちゃくちゃ遠距離じゃないですか!」
「そうだな」
藤真さんは、先ほど解かれた私の腕を取って、そうしてその腕を引き寄せ、私の体をそっと包み込んだ。思いがけず「うおっ」と色気の無い声を発してしまう。
「着いてくるか、俺に」
「……は、はい?」
「結婚するか、俺たち」
「……けっ!?」
「俺と、結婚しよう——。」
なんだろう。すべてを望んだ通りに手に入れる難しさというか、ひとつの選択肢の違いで人生がまったく変わってしまう恐さというか、ハッピーエンドとメリーバッドエンドは紙一重というか。幸せって、人生って、なんだか難しいよね……。
*
「プロポーズぅ!!?」
大きなその声に店内にいた他のお客さんがコソコソ話の姿勢でこちらの席を見る。彩子は慌てて「すみません」とぺこぺこ頭を下げていた。そうして彼女のその視線がまた私のほうに向けられたので私は、コクンとゆっくりうなずいた。彩子は息を呑み、やや声のボリュームを下げつつ問う。
「そ、それでアンタ……なんて?」
「……、はい……って。」
「ちょ、ちょっと待って。もう一回言って?」
「だっ、だから……ハイ、って。」
仕事のお昼休みに、彩子に電話をした。お茶のお誘いならメールで良かったのにと笑う受話器の向こう側にいる親友に、私は言った。
「いや、なんとなく……声が聞きたくなって」
そう伝えると『可愛い子ね』って揶揄われた。
実際のところ私も実はあまり実感が湧いていなかった。ニューヨークに行くことも藤真さんからプロポーズを受けたことさえも……。頭ではまだ上手く理解していなくても本能が感じ取っている『別れ』の二文字。もう会えなくなってしまうのなら会ってしっかり伝えようと思い、彩子を誘い出したのだ。しかし、彼女の驚いた表情を見て、一瞬なぜだか蘇ってきた——17歳の頃の自分。幼馴染の彼に別れを告げた、あの日のこと。
あのときも、頭では整理が出来ていなくても、このままではいけない、と。私の本能が、別れを切り出してしまったのだろうか。それとも、若さ故の勢いだったのだろうか。結果あの決断が正解だったのかは、未だによく分からないけれども。
「名前?」
先ほどまで大声で騒いだり質問攻めをして興奮していた彼女がいつもの落ち着いた声のトーンで私の名前を呼んだ。私は、そっと顔を上げる。
「幸せに、なるのよ?」
そう言って、高校時代のように優しく私の頭を撫でてくれた。うん。今度こそちゃんとサヨナラをするんだ。想い出の地と、��初恋�≠フ記憶に。
*
私は藤真さんを連れて、実家へと足を運んだ。はじめ、電話でお父さんに男の人を連れていくと伝えたときお父さんはしばらくフリーズしていたけれども、ちゃんと当日は小綺麗な格好をして、玄関で、私と藤真さんを笑顔で出迎えてくれた。
「緊張した?」
「そりゃあ、お前の父親だからな」
「うそ。ぜんぜん緊張しているようには見えなかったのに」
「得意なんだ、感情を隠すのが」
「そうなの?でも、本当に見えなかった」
「したよ、緊張」
私のしつこい尋問にも受け流すように微笑んでそう淡々と答える藤真さん。
ニューヨーク行きの話と結婚の報告。お父さんはあたりまえにびっくりしていたけれど、すこし涙ぐんで『娘をよろしくお願いします』と言って深々と藤真さんに頭を下げていた。お父さんも、歳を取ったんだなぁと、久しく見た父親の顔と、知らぬ間に、涙脆くなっていたことに時の流れを感じたりした。
「藤真さんは、実家に行かないの?」
自宅を出て、藤真さんと歩いていたときに私がそう尋ねると「行かない」と即答されてしまってそれ以上言うなというような圧に押され私は口を噤んだ。
「けど、このあいだ……」
隣りで黙りこくっている私をどう思ったのか、藤真さんが思い出したように語り出したことで、蘇る自身の失態。きっと私が駅のベンチで泣いていたあの日のことを言っているのだろうと思い、私は思わず苦笑いを浮かべた。
「地元の奴らに会いに来てたんだよ」
「帰りにベンチで泣いてる女がいてさぁ」と、意地悪く私を覗き込む彼。今になって恥ずかしさが倍増して押し寄せてくる。「もうそれ以上言わないで!」と顔を赤くして言ったら「ずっと言ってやる」なんて言って、藤真さんは笑っていた。
「そうだ。名前の思い出の場所、連れて行けよ」
「思い出?思い出の場所かぁ……」
「あるだろ?ひとつやふたつは」
「そんなのないよ」
即座に私が言うと「つまんねー女」と藤真さんはいつものように冷めたふうにあっさりと返す。
……なぜだろう。このひとを、思い出の場所に案内する気にならないのは。思い出が消えてしまいそうで、怖いから……?
「……名前ちゃん?」
彼の家の前は通らずに遠回りをして駅に向かうつもりだった。自宅を出ていつもとは違う道を、と。つい藤真さんとの会話に気を取られていた。いや、いつもの癖でこっちに来てしまったのだ。こっちは……寿の家のほうだ。
「お、おばさん……」
「名前ちゃん……、そちらー。」
「あ、あの、おばさん実は……」
おばさんが藤真さんを見て、探りを入れてくるような視線を向けてくる。私は返答に戸惑って、言葉に詰まってしまった。すると、突如聞こえて来た、彼の家の階段を、騒々しく駆け下りてくる足音。次第にその足音は大きくなり、私たちのいる外まで響いてきた。
「ちゃんと用意しとけって言っただろうがよ!」
その大きな声は家中というか外まで響き渡っていた。そして徐々に外へ向かってくるその足音が私の鼓動を早めていく。見えなくても、姿はなくても、分かってしまう。懐かしい、その声——。
私の心臓が、バクバクと音を立てはじめるのと同時にバタンッ!と、玄関の扉が開いた。そしてついに、その声の主が私たちの目の前に現れた。
「まえから何回も電話で——、」
彼は私たちの姿を見て目を見開いた。そうして言葉を失ったように先の言葉を無くしてしまったようだった。
「……寿、」
「名前……!?」
私はそのとき、気が付いた。彼の手に持たれていた車の鍵からぶら下がる、小さなストラップの存在に。あの話、本当だったんだ……。
『 三井先輩も、同じの付けてたわよ 』
わたしは寿に、聞きたいことがある。
あのとき、どうして来なかったのか……。
TOP