25歳、冬(44話)
数日後——。玄関に入ると、彼のスニーカーがあることに気がついて「ただいまー」と反射的に室内のほうへ声を投げかける。しかし、私の声に返事は返ってこなかった。ふと、腕時計を見る。今日は土曜日なのでバスケ部の練習で出て行った彼が帰宅するには、まだ早すぎる時間帯だった。
「……ひさし?」
バリアフリーの玄関を車椅子で通り過ぎてリビングへ向かうと——彼のうしろ姿が目に入った。「練習もう終わったの?早かったね」なんて声をかけながら、そのまま買い物袋をダイニングテーブルに置いたとき。
「なまえ」
と、不意に名前を呼ばれた。多少苛立っている雰囲気はその声質からも感じ取れた。声を掛けてきた張本人は未だこちらに背を向けており不思議に思った私は、車椅子で彼の背後まで移動する。
「なに?」
「……」
「ひさし?」
「……なんだよ、これ」
「え?」
彼が振り向いた瞬間、私はビクッと背筋が凍る感覚に襲われた。彼の、睨みつけるような視線とともに私の視界に入ったのは彼の右手に持たれている可愛らしい絵柄のついた封筒——。
「あっ! それは……」
「おまえ、なに考えてんだよ」
彼の幼馴染だという人物から届いた手紙の返事だ。隠していたのに。彼の目に着かないように、隠していたつもりだったのに……。どうしていま彼がそれを持っているのだろうか。
「お前……こんなことして、なにしてーんだよ」
「………いいじゃない」
「は?」
「いいじゃない、べつに!過去のひさしを知ろうとしたって!」
「俺の、過去だと……?」
——べつに、開くつもりなんか無かったんだ。互いのプライバシーに土足で踏み込むほど俺だって子供じゃないし、興味もない。
体育館のワックス掛けが入ったお陰で、今日は夕方で部活を終えた。乾くまで使用禁止と言われ明日も休みになったので婚約者を誘って、飯でも食いに出かけるか、なんて思いながら帰宅した。水戸の店での一件以降、数日間、家に帰らずビジネスホテルに泊まったりしていたことも、素直に謝罪しようと思っていたから。そういや前に生徒から貰った飲食店の割引券があったなと思い出し引き出しを開けてみた、ただそれだけのこと。
目に止まった見慣れた懐かしい文字。それと、水色の封筒。遠い過去のあの日——必死になって探した後輩からのプレゼント。あの絵馬の文字と重なって一気に記憶の中に蘇って来て胸が苦しくなった。気が付いたら、中身を開いて読んでいる自分がいた。
話せない。俺の過去なんて。話したくねえ……誰にも、知られたくない。苦しくて、楽しくて、切なくて。あの忌まわしい過去も、あの……幸せだった日々も。誰かに言ったら消えてしまいそうだから。
「——ちょっと!ひさし、どこ行くのっ!?」
「……せ、」
「え?」
「離せよ。」
相手は俺のその低く冷たい声に掴んで来た腕をそっと離した。俺は彼女を素通りし玄関に向かいスニーカーの紐をきつく結び直す。背後から彼女の「ひさし……」と呼ぶ、小さな声が聞こえた。
「俺……いまから東京行ってくる。」
「……え、」
「月曜までには帰る、これが……最後だ。」
立ち上がって背を向けたままそう彼女に告げ、玄関の扉を開けようとした、そのとき——。
「……ねぇ、ひさし?」
彼女のつぶやくような問いかけに俺はドアノブに手を掛けたまま、先につづく言葉を待った。
「私、ひさしに聞いてみたいことがあったの」
「……」
「ひさしは……私の足がこうなったのは、自分のせいだって、思ってる?」
『
センパーイ!
』
『
これ忘れてますよ!
』
「だから、結婚しようとしてるの……?」
やめろ……。
『
その人ですか?……大事な用事
』
『
その人とセンパイが終わるまで、私……
』
「本当は、責任感じてるだけ?」
「……」
「ねぇ、そうなの?」
「……っ、」
やめてくれ……!
『
そんなに好きなんですね、その人のこと
』
「ひさし、答えて! ねぇ、答えてよ!」
俺は、ずっと……。
『
今度こそ、幸せにしてやりてーんだ
』
「………わりぃ、行ってくるわ」
蘇る自身の記憶をかき消すように固く目を瞑り婚約者に背を向けたまま俺は、玄関の扉を開いて自宅を出て行った。
*
—— プルルル…… ——
もうすぐ約束の彼女とデートだ!と胸を弾ませながら着替えをしていた。そんなとき、ベッドに放り投げてあった自身のスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。約束の相手、彩ちゃんかなと、だらしなく緩む頬をパチン!と平手打ちしてスマホを手に取るとディスプレイには……意外な人物の名前。俺はひとつ、溜め息を漏らす。
「——なに。」
もしもし、とも言わずそう冷たく言って出れば『……宮城か』と、低い声が耳に届く。
この人と話すのは、あの日以来だった。自分でセッティングしてしまった地獄のような食事会。その翌日に勢いで電話を掛けて先輩に説教を垂れてしまった事を少々オレも気にはしていたから。
「はい?」
『——きょう、空いてねぇか?』
「……?」
なんだか嫌な予感がした。直感的にというか、本能的にというか。こういうことは昔からたまにあって。遠い記憶の中にある——体育館に土足で入って来たあの��先輩�≠フ姿がいま電話の向こうにいる相手と、リンクしたような気がしたから。
「きょうは、彩ちゃんと会うけど」
『そうか……』
「……なんスか、なんか急用でした?」
『俺、いま……』
「……」
『——東京にいる。』
——ほらね、やっぱり。
TOP