25歳、秋(40話)
「名前ーっ!」
私は無意識に足を止めた。もう振り向かないと決めたのは、つい最近の話だというのに。体が、勝手にその声に反応してしまう。もはやこれは、癖のようなものなのかも知れない。そうして私が振り返った視線の先には、笑顔でこちらに走ってくる大切な��幼馴染�≠フ姿——。
「……はぁはぁ、」
「やっと見つけたぜー」と両手を膝に付いて、肩で息を切らしている彼に、私が静かに訊ねる。
「……学校は?」
「昼休みだ。だから俺の生徒の命の恩人、探しに来た」
そう言って、満面の笑顔を向けられる。私は、言葉に詰まる。ほんと変わらないね。その笑顔を私は、ずっと……。
「もう……大袈裟だよ。」
呆れたように吐き散らし私が側にあったガードレールに軽く寄り掛かると、彼も私の隣に並んでそのガードレールに腰をあずけた。きょうの天気予報は雨だったけれど、空は秋晴れ。空気がおいしい。私が不意に空を見上げて、すーっと鼻から空気を吸う。すると彼から先に口火を切られた。
「——それより」
「ん?」
「なんでせっかく学校まで来て顔出さねんだよ」
「……う、うん。」
「……?」
「いや——どんな先生か、抜き打ちで、チェックしてやろうと思ってさぁ」
「……ンだよ、それ」
「思った通り、寿にとって教師は天職だとわかりましたっ!」
正面を向いたまま私が片手をこめかみあたりに付けて軽く敬礼して見せると、不意に視界が捕らえた——私に向けられた、彼の視線が。
「名前」
「……ん?」
「なんでこんなとこにいんだよ、なんかあったのか?」
その言葉に思わず横にいる彼を見やると真剣な彼の眼差しと目が合う。私は途端に気まずくなりすっと視線を逸らして、やや矢継ぎ早に言う。
「……な、なににもないよ?てか、なんかあってほしい?」
「な、なに言ってんだよ!」
「ハハハ、だよねー」
やっぱり変わらないなぁ、寿も私も。なんて、昔を懐かしんでいると「……なあ、」と、彼から問いかけられたので私は再度、彼のほうを見る。
「俺、これから学校帰らねーといけねえけど」
「うん?」
「……飯、一緒に食わねーか?」
「メシ……?……なまえ、さんは?」
「まだ……東京の実家だ。」
「……そ、そっか。」
私たちの近くを走る電車の音がやけに耳にうるさく響いた。そして、すこしだけ二人のあいだに流れた沈黙。ややあって、向こうが口を開いた。
「旨いとこ知ってんだ、だから待ってろ。連れてってやる」
「で、でも……電車の時間とかもあるし」
「なるべく早く来るって、だから待ってろ」
「……、」
「なっ?」
「でも……」
「この三井様が奢ってやるよ、いーっぱい食え」
「え……?」
「なんか、元気がねぇからよ……。」
寿……。
「待ってろよ? ぜーったい、待ってろよ!?」
��元気がない�≠ニ、すこしだけ寂し気な表情を見せた彼だったが、すぐに笑顔に戻り私を指差しながらそう告げると学校の方へと走って行った。私は、その背中が見えなくなるまで、ただ茫然とその場に立ち尽くして彼の姿を見つめていた。
*
「……寿と、こうやって食事するの久しぶり。」
「だな。」
「でも、なんで鯖みそ定食なの?せっかくなら、高級レストランとかさぁ」
「バカ!め〜ちゃくちゃ、うめーんだぞ!ここの鯖みそ」
「はいはい、冗談だってば」
なんだか、寿らしいなって思って不意に笑みがこぼれた。私は、目の前に置かれた鯖みそ定食を眺めて「おいしそう」とつぶやき、スンスン鼻を啜ってみたりする。
「……元気そうで、よかった」
「えっ?」
彼がなにか言ったようだったが店内が騒がしくて、うまく聞き取れなかったので咄嗟にそう聞き返すと彼は「いや……」と私から視線を目の前の料理に落とし込み割り箸を割る。私は、そんな彼の様子を見て、ぽつりとつぶやいた。
「もしかして、これが最後になるかもね……」
「……あ?」
「いーっぱい、ご馳走になっちゃおーっと!」
「……。」
きっといまの私の声は彼には届いていなかっただろうと思う。しばらく私を不思議そうに眺めていた彼だったがおすすめされた鯖みそ定食を私が口にして「おいしー!」と大袈裟に言うと彼は、力なく笑って見せた。
食事を終えお店を出ると彼が突然突拍子もなく「ドライブしよーぜ」なんて少年みたいな笑顔で言うから私は渋々その提案に乗ることにし、傍に駐めてあった彼の車に乗り込んだ。助手席に座り窓の外を見ながらなんとなくどこに向かうのかは検討が付いていたけれども、あえてそれを口には出さなかった。
辿り着いた場所はやはりあの思い出の海だった。先に彼が車を降りて、私が彼のうしろからすこし離れて着いて歩くと、いつもの定位置、石段に彼が腰を下ろした。私も自然とその隣に腰をかけると穏やかな潮風が顔にかかった。なんだかそれだけで心が洗われる気がした。そしてふと蘇ってくる、過去の記憶——。
「……あのときと、同じだね」
「そうだな……」
何度も何度もここへ来て喧嘩をしては仲直りをして。泣き、笑い、愛を、希望を互いにたくさんわけ合った大切な場所。彼も結婚をして、子供ができて、同じように家族でこの海を眺めたりするのかな、なんて想像してみたりする。
「……本当に、覚えてる?」
「ああ、覚えてるに決まってんだろ。中学の……ときのことだろ?」
それでも疑いの目を向けた私に「なんだよ」と不貞腐れる彼のその顔は、やっぱりあの頃のままだった。
「……懐かしいね」
「ああ、懐かしいな」
季節は秋。すこし肌寒いが心地よい海の風と、懐かしささえ感じる潮の匂い。毎日一緒に帰ったあの道を、一緒に笑い合ったあの校舎も。笑って泣いて、想いを分かち合ったこの海も。すべて、ぜんぶが切なくて、愛おしい——。
——寿、あなたの中の私は……
——名前、おまえの中に俺は……
「……なんだよ」
「……なに?」
「俺の顔に、なんかついてるか?」
「ううん。たぶんいま、同じこと思い出してた」
「……。」
この沈黙の時間も今日は、なんだか心地いい。不意に隣に並んで海を眺めていたが彼が私の方に体を向けた。私は驚いて、やや身構えてしまう。
「名前、その……」
「……ん?」
「藤真と、うまくいってるか?」
「……、なんで?」
「いや、俺またあいつに、余計なこと言ったかと思ってよ」
「余計なこと?」
「お前は名前の前から逃げ出したんだろって言われて……俺、なにも言えなくて」
そう言ってまた正面を向いた彼が頭を下げて、己の髪の毛をガシガシと掻くその懐かしい仕草に胸がチクリと痛む。
「俺、一度も名前の前から逃げ出した覚えなんてねぇ」
「……」
「——けど、そう思われても……仕方ねーよな」
「……。」
——潮風がつん、と鼻を突いた。思わず目頭が熱くなる。がんばれ、頑張ってるけどがんばれ。負けるな。何に勝とうとしているのかわからないけれど、だけど負けるな。自分に、負けるな……
『
ダメだと思ったんだ
』
『
このまま続けても、俺たち……
』
あの日——彼から言われた台詞が一気に蘇る。思わず私は目を瞑った。胸が痛くなって気付かれないように小さく息を吐く。しかし次にぽつりと放たれたその言葉に私は彼を見て目を見開いた。
「名前、俺……嘘ついた。」
「え?」
「待ち合わせした、あの日……やっぱりダメだと思って行かなかったっていうのは……嘘だ。」
風が一瞬、強く吹き荒れる。なにも言い返せず私はただ彼を見つめてつづく次の言葉を待った。彼は目を伏せて言う。
「ほんとは……ほんとは、名前とやり直すつもりだった」
「……」
「けど、待ち合わせの場所に行く前になまえが目の前で事故にあって、それも俺のせいで……」
「……」
「どうしても名前のとこに戻れなかった……それから、ずっと」
彼が拳を握る。それは、悔しいときに見せる、彼の無意識の癖だった。奥歯を噛み締めて眉間に皺を寄せたその横顔を、私はじっと見据える。
「あのときはこれでいいと思ってたんだ。いや、つい最近まで、俺のやってることは間違ってねぇって……」
「……」
「だけど俺、後悔しはじめてる。気にしないように、気にしないようにって思えば思うほど」
かたく蓋をしたはずの想いを開けてしまったらもう、止まらない——。彼の伝えたかった想い。震える、泣きそうなその声。しかし先に涙を零したのは、私のほうだった。
「名前のことが、気になって心配でたまらねぇ」
「……寿、」
「俺のしてることは正しいのかよくわからねぇ」
そうして彼はまた私のほうへと体を向けてその真っ直ぐで偽りのない瞳で問う。
「名前、おまえ幸せか?」
「……、」
「アイツと……藤真と、幸せになれそうか?」
「……、わたしは、」
そうつぶやいたまま、私は言葉に詰まる。そのまま無意識に彼から目を逸らしてしまった。それでも容赦なく降り注がれる、意思の強い愛おしい幼馴染の声が——。
「名前、答えてくれ。俺は、俺は……っ」
そう言って彼は力いっぱいに私を抱き寄せた。強く、強く……私を抱き締める、彼の逞しい腕。切なくて、苦しくて。けれど温かい彼の腕の中。いつも求めていた彼の温もりが、そこにあった。
「答えろよ、名前——っ、」
「私は、私は………」
—— プルルル…… ——
「……」
「……」
「寿、電話……」
「……あぁ、」
突如その場に鳴り響いた機械音。彼は名残惜しそうに私から体を離して立ち上がり、私の背後、すこし離れたところへ移動して、電話を取った。そしてしばらくするとこちらへ戻って来たので、私もその場から立ち上がる。
「なまえさん?」
「……ああ」
「戻って、来たって?」
「………、ああ。」
彼はそう小さくつぶやいて俯いた。向かい合ったままの二人のあいだに沈黙が流れ、私はふっと息を吐き、力の無い声で言う。
「じゃあ……帰ってあげなよ」
「……。」
またも流れる沈黙の時間。それを破ったのは、「それがいいよ」とつぶやいた私のほうだった。それでも彼は俯いていて、いまだその場で無言のまま立ち尽くしている。私も無言で言葉は一言も発さずに、その場を立ち去ろうと歩き出す。彼の横を通り過ぎるとき「待て!」と彼が、私の腕を引いた。私はその反動で足を止める。
「駅まで送る、送るからよ……」
そう力無くつぶやいた彼。私は躊躇ったあと、小さくコクンと、うなずいた。
*
「……ありがとう、ここまででいいから」
駅に着いて、彼は駅の中まで見送ってくれた。私は階段の目の前で立ち止まり彼にそう告げる。
ああ、ここは……数えきれないくらい、何度も二人で歩いた、通い慣れた場所だ。懐かしいな。私と向き合う体勢でなおも俯く彼に、私はそっと声をかける。
「寿……。」
「……ん?」
ようやく顔をあげてくれた彼と正面から向かいあう。私はやや目元を和らげて言う。
「寿は、間違ってないよ」
「……え?」
「なまえさんと、幸せにならないと……私は、藤真さんと、ね?」
「……。」
だからお願い、笑って。最後に見せて欲しい。あの、大好きだった、あなたの笑顔を。あなたの笑顔はいつだって、流れる花筏のように私の心を彩りさらってくれるから——。
「結婚するのに昔のことをいつまでも引きずってちゃダメだよ」
母が死んでから、どん底の暗闇の中で……その笑顔だけが、私の光だった。
世の中や人生は無常である。この世で出会った人とは、必ず別れるときが来る運命にあるということ。それはもう、充分にわかっているから。
「寿も、ストラップ捨てていいから……」
「……は? ストラップ?」
「私、なくしちゃったの。こっちに来てから」
「……」
「でもいいの。きっと神様が、いつまでもこんな物にすがるなって、取り上げたんだと思うから」
「名前……」
「……。送ってくれて、ありがとね。」
「……ああ、気にすんな」
そのとき、電車が停車して扉が開く音と同時に彼の声が、私の耳にたしかに届いた。
「……元気でな。」
「うん、寿もね。」
恋しく思うこと。一緒にいたいと、願うこと。どれだけ時間が経ってもあなたへの想いが薄れることはなかった。だから、最後は笑顔でちゃんと真っ直ぐに伝えたい。
大きな嘘ほど信じられやすいという法則——。本当に心から楽しむためには強さがいる。きっと強いって��自由�≠フことを、言うのだろう。最近とても、それを痛感している。
「 さよなら。」
……言えた。ちゃんと、言えた。ようやく言えた。ちゃんと、寿の目を見て伝えられたよ。もうこれで思い残すことは無い。私は階段へと足を踏み出す。階段を登りきり彼に背を向けたまま電車に乗り込んだ。そうして間もなくして扉が閉まり電車は真っ直ぐ走り出した。
幸せになって。どうか、必ず。寿が……絶対、幸せになりますように——。
TOP