25歳、夏 (35話)
土曜日——新宿の某レストラン。店内の壁掛け時計の時刻は、午後の二時半を指していた。
「はじめまして、ひさしの婚約者のみょうじなまえです」
「あっ、はじめまして……彩子です。」
「ども……宮城、デス……。」
「きょうは、彼に無理を言って連れてきてもらいました」
三井サンの婚約者の挨拶が終わってから自然と目を合わせる彩ちゃんとオレ。それを見たのか、車椅子に座る彼女が「おじゃまでしたか?」と、上目遣いで尋ねて来た。慌てて彩ちゃんが「いやそんなことは……!」と否定をしたあと、オレをギロリと睨みつけながら言う。
「悪いのはリョータよ、無理言ってみんなを集めたんだから……」
ばつの悪そうな俺に笑顔を向けてくる目の前の三井サンの婚約者にさらに気まずさが倍増する。思わずオレは苦笑いを返しさっと視線を逸らしてしまった。
「……わりーな宮城。うちの嫁さん言い出したら聞かねぇとこがあってよ」
なんて、三井サンもオレと同じように、ばつの悪そうな顔つきで謝ってきたので、オレはハァと深く溜め息を吐いたあと「実は今日ここで」と、事の経緯を、嘘偽りなく説明することにした。
「名前ちゃんと、藤真の親が会うんだ……」
未だ椅子に座らずに立ったままの俺たち三人。そのオレの言葉に今度は彩ちゃんではなく、三井サンがオレを睨みつける。だから、やめてよ……その、人を殺めそうな目つき。
「宮城、おまえ……」
オレは三井サンからも目を逸らしてもう一度溜め息を吐き目を伏せた。三井サンとオレのそんな一連のやり取りをただ見上げて眺めているだけだった三井サンの婚約者の彼女が、いったいなにを思っているのかなんてオレは知ったこっちゃない。そもそも三井サンの婚約者が来るなんて夢にも思ってなかったから。まじ、最悪の展開。
「……だってさぁ、気になんねぇ?どんな人か」
まるで開き直ったみたいにして言うと、オレを見ていた三井サンが言葉にならないと言った様子で、呆れたように深く溜め息を吐いた。なんだかそれは、幸せが逃げて行きそうな溜め息だった。
「オレたちの目でちゃんと見定めて、それで——送別会したら……」
「……」
「心置きなく、送り出せるじゃん……」
「……」
「だから、みんなを呼んだ……。」
そう言い終えて俺はまた、溜め息をつく。未だこの場にいるオレ以外の三人が沈黙を貫くなか、オレが「そー言うの付き合えます?」と三井サンの婚約者の顔を覗き込んだ。彼女が返答に困ったのか、オレから目を逸らした、そのときだった。
「……来たわよ。」
と言う彩ちゃんの声に立っていたオレたち三人はとりあえず急いで席に座った。入り口から一番先に入って来たのは藤真の母親。あとから続いて藤真と彼女の姿。テーブルに着くなり藤真の母親はすぐ席に座った。丸テーブルの目の前、藤真と彼女が立ったままで、彼女が先に挨拶をする。
「あらためまして、ご挨拶します……」
「……」
「わたくし、名字名前と申します……。」
藤真と彼女の二人に目線は合わせず無言を貫く藤真の母親を見て見ぬふりをした藤真が、やけに冷たい声で「座れよ」と彼女を席に促し、彼女が従って席に座る。藤真はそれを待ってから、席に着いた。
「……父さんは?」
藤真が母親にやや投げやりに問うが相変わらず遠くを見据えているだけの藤真の母親。そんな、母親の姿に嫌気をさしているような口ぶりで藤真が吐き捨てる。
「また仕事ですか。」
「……」
「……はぁ。そっちが、どうしても会いたいって言うからわざわざこうして時間を作って席をもうけたのに」
「ま、俺はかまいませんけど。」と藤真は目の前に置かれた、水の入ったグラスに口を付けた。そしてまた藤真が、強い口調で矢継ぎ早に言う。
「最初に言っときますけど俺は結婚式も披露宴もやるつもりはありませんから」
「そんなわけにはいきません」
「どうせやったって父さんや母さんの社交の場になるだけでしょ。そんな客にヘラヘラと媚を売るのはごめんだ」
「……」
またも生まれる沈黙。藤真の隣りに座っていた彼女はずっと俯いたままだったが目が泳がないように視線をテーブルへと落とし込んでいるようにも見える。
「——名字さん、と仰いましたね。」
淡々と品よく彼女の名を口にした藤真の母親。しかしその目線が彼女に向くことはなく、あいかわらずと言った様子で遠くを見据えている。名を呼ばれた彼女はちらっと藤真の母親を見てから、「は、はい……」と、か弱く答えていた。
「あなた——本気で家の健司と結婚するおつもりですか?」
「母さん怒るよ」
「怒るのはこっちですっ!」
突然声を荒げた藤真の母親にもちろんオレたちは驚き息を呑む。それは、藤真の隣に座っていた彼女も同様だったようで彼女は顔をあげやや目を見開いていた。そうして藤真の母親が本日初めて彼女のほうに視線を向ける。が、すぐにまた彼女から視線を逸らしたのだった。
「失礼ですが色々と調べさせてもらいましたよ」
「また、余計なことを……」
「余計なことじゃありません!」
「……」
「……健司?お父様がこの席に来なかったのは、なぜだと思う?」
「……、」
「来るまでもないからです。」
「……」
「わかるでしょう?主人はこの結婚に反対なの」
ずっと藤真だけを見て話していた藤真の母親が最後にはまた視線を彼女に向け語り掛けるようにそう言い置いた。
「父さんがなにを言おうと俺には関係ない……。母さん、あんたもだ」
「健司、あなたは知っているの?」
「……?」
「この子の母親は、自殺しているのよ?」
藤真の母親の口から発された、まさかの衝撃の事実に彩ちゃんとオレは咄嗟に三井サンを見た。そんな三井サンは藤真たちからそっと視線を外し目の前に置かれた手付かずの自身のグラスをただぼうっと眺めていた。——だけど、オレは見ちゃったんだ。幼馴染の彼女や藤真、オレたちにすら目線を合わせない三井サンの膝の上で強く握られていたその拳が、微かに震えているのを……。
オレや彩ちゃんすら知らなかった三井サンだけが知っていたであろう、彼女の過去。お母さんが自殺したなんて初耳だった。きっと三井サンも、こんなかたちで明らかになったことやオレたちに本人の口からではなくまさかのライバルの母親の口から知れてしまったことへの苛立ち、戸惑い、歯がゆさがあるのだろうなって。
三井サンの婚約者は、そんな三井サンの姿を、神妙な面持ちで、横からじいっと見つめていた。
「——だから、なんだよ」
「だからなんだじゃないでしょう!?」
またもヒステリックに声を荒げた藤真の母親がバンッ!と、テーブルを叩いた。その音に驚いた藤真の隣に座る彼女の肩が、ビクンと震える。
「幼い娘を捨てて、母親が居なくなるのよ?」
「……」
「そんなお母さんを恨んだことあるでしょう?」
「……、」
「心に傷だってきっとまだ残ってるでしょう?」
「………わ、わたしは、」
まるで尋問だ。彼女は、震えた声で反応する。そんな彼女の震えた声にがここまで届いたとき、三井サンの眉間に微かに皺が寄ったのを、オレは見逃さなかった。
「……あなた、本当に健司を幸せにできるの?」
「……、」
「あなたのせいで、この子が不幸にならないと、言い切れるかしら?」
「
……なさい ………
」
それは小さな声だった。きっと彩子や宮城には届いていないだろう。けど、確実に届いていた。俺の耳には——。
三井サンの視線がゆっくりと彼女のほうへ向いた。オレは、そんな三井サンを見つめる。そして藤真の母親が彼女に問う。「どう?」と——。
「……ごめん、なさい……」
「……健司、どう? わかった?」
「……」
「健司!」
「母親のしたことと、こいつのことは関係ない」
オレはずっと三井サンを見ていた。激しく揺れ動く三井サンの心情を。三井サンの足が……行きたいと、言ってる。三井サンの強く握られた拳が彼女を抱き締めたいって、言ってる。そんな気がする。三井サン……やっぱり今でも、名前ちゃんのこと——。
「だいたいろくに家庭を守ってない人に言われたくないね。——名前、行こう。」
彼女の腕を乱暴に取って、立ち上がった藤真。強引に腕を引かれたことで、力を無くした彼女の体も無理やりに立ち上がるかたちになった。
「私は許しませんからっ!」
「……、最初から許してもらおうだなんて思ってないよ!」
「……っ、」
「父さんにも、そう伝えてくれ……。」
そう言い置いて、彼女の手を掴んだまま藤真はレストランの出入り口へスタスタと隙のない動作で歩き出す。
—— ガタンッ……。 ——
「三井サンっ!」
「三井先輩っ!」
思わず声が重なってしまったオレと彩ちゃん。そして、そんなオレらを無視してズカズカと踵を鳴らし三井サンが向かった先は——藤真の母親のところだった。
「……名前は、ちゃんとしたやつです」
「……!?ちょ、ちょっと。あなた、どなた?」
「こいつの、名前の幼なじみです。」
「……寿。」
もしかして、私は幻でも観ているのだろうか。いま藤真さんのお母さんの目の前に立っている、この人は……いま私の名を呼んだこの人は——。
「こいつは、大好きな母親が亡くなって、すげぇつらいはずなのに、いつも元気で明るくて」
「だけどこの子謝ったわ、ごめんなさいって!」
「それは……!それは……なんでも、自分のせいだって考えちまう、こいつの癖なんです」
そう言って三井サンは背後に立っているであろう彼女のほうを見た。彼女は藤真に腕を掴まれたまま、俯いていたけれど。そして三井サンはまた視線を目の前にいる藤真の母親へと戻す。
「自分よりもまずは先に人のことを考えちまう、よっぽど思いやりのある、証拠なんですよ」
「なっ……なんなのよ、あなた!関係ない人は、黙っててちょうだいっ!」
「黙ってなんかいられねーんだよっ!」
ドスの効いた巻き舌で、まるで——高校二年のあの春の日、体育館に土足で入ってきたある先輩を彷彿とさせるようなその光景にオレと彩ちゃんは「三井先輩……」「三井サン……」と、無意識に口から零していた。きっといま彩ちゃんも同じことを思ったんじゃないかなって思うんだ。
「辛い思いをしたから、人に優しく出来るんじゃないんですか?」
藤真さんのお母さんを見る、真っ直ぐで偽りのない彼のその瞳に、揺るがない想いを伝えるその声に、私はまた、遠い過去の二人を想う——。
ずっとそばに居てくれた。たくさんたくさん、大切にしてもらった。そんな��幼馴染�≠ヘ、いま目の前で私のために、藤真さんのお母さんに何も反論できなかった私のぶんまで想いを伝えようとしている。——ねえ、どうして、そこまで……。
「大事な人を失ったからこそ、余計に人を大事に出来るんじゃないんですか?」
「……」
「母親を亡くしたからきっと、お母さんと呼べる人に会うのを、楽しみにしていたと思うんです」
そう言った三井サンがややあって、ゆっくりと両膝を床に着けたその一連の流れに、オレと彩ちゃん、そして藤真と、その隣にいた彼女が、目を大きく見開く。
「三井サン……!」
「………、寿っ!」
あの普段はクソ俺様でにくたらしくて偉そうで口が悪くて意地っ張りでプライドだけ無駄に高くて俺様で偉そうな(大事なことだから二回言う)あの、三井サンが……土下座、してる——。
「……お願いします。名前のこと、認めてやってください」
「……」
「——いや、ちょっとでいいんです、話を聞いてやってください。お願いします!」
そう言って三井サンが深々と頭を下げて、額を床にべったりとつけた。オレと彩ちゃんは、口をあんぐりと開けたまま、言葉を失っていた。そのとき、同じく三井サンを見つめていた三井サンの婚約者の瞳から涙が、こぼれ落ちたのが見えた。
「……行こう、名前。」
「で、でも……」
——え?
「彩子、リョータくん……?」
藤真さんに再度強く腕を引かれた反動で、次に視界に入ったのは私たちの背後、少し離れた席に並んで座っていたらしい大切な親友、二人の姿だった——。
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