25歳、夏 (37話)
—— 数日後 ——
「お袋が来た?」
「うん……藤真さんのマンションで、荷造りしてたら突然。」
私たちは藤真さんのマンションで一緒に夕食をともにしていた。その彼に告げる、本日の昼間に起きた、このマンション内での出来事。
「……で、なんて?」
「う、うん……それがね?言い過ぎた、悪かったって謝られて」
「……」
「なんか、私のほうが恐縮しちゃった」
「……」
「お母さんが美味しい紅茶持ってきてくれたから一緒にここで飲んだの。まあ、それだけ。」
「……」
ふとテーブルの上にドレッシングがないことに気づいた私は、席を立ってドレッシングを取りに向かった。藤真さんはとくになにも言い返してはこなかったが私は気にせず席に戻り、椅子に腰を落ち着けてから、そのまま会話をつづける。
「いい人だよね、お母さん。優しくてさ……。」
「なにが優しいもんか」
「え?」
「毎度ふりまわされるこっちはどうなる」
「ふ、ふりまわされるって……」
またあの冷たい目をして箸を、少々乱暴にテーブルに置いた藤真さんに私は、ビクンと肩をゆらした。そうしておそるおそる彼に視線を向けた。しかし彼は、私のほうなど見向きもしない。
「どうせ、またくだらないことでヘソ曲げるぞ。取り乱して、喚き散らして、人を罵倒する」
「そ、そんなこと……」
「いい加減こっちが愛想を尽かしてきたころに、絶妙なタイミングで泣き落としにかかる」
「……」
「そこからは、弱くて面倒な女の典型だ。今までどれだけあいつに振り回されてきたか」
「藤真さん……。」
「お前の母親のことをあんなふうに言ってたけどあいつだって死ぬって騒いだのは一度や二度じゃない」
「……」
「いまにはじまるぞ。思うようにいかないことがあると、あんたのせいよ、ってな……。」
「——。」
ふと、よみがえる。高校三年生のときの記憶。
寿と別れて、水戸くんと仲良くしていたことを良く思わなかった同級生から浴びせられた言葉。
��ぜんぶ、アンタのせいじゃん!��
��三井先センパイのつぎは水戸洋平かよ!��
��三井センパイ、かわいそ〜��
「それから、死ぬって喚くんだ……。」
��鈍感かよっ!��
��なぁ〜にが湘北高校の名物カップルよ!��
��調子乗ってんじゃねーよ!死ね!��
「もしかすると、潮らしく謝るかもしれない。」
��ごめんね〜、名前ちゃん。��
��寿ねえ、お風呂入っちゃったの��
私は不意に記憶の中に、彼の母親の姿を見た。私の中の母親像は藤真さんの言うようなものとは違って、もっとこう温かくて……。あ、そうか。私の母親の記憶ってきっと寿のお母さんなんだ。
「弱い奴は切り捨てろ、相手にするな。」
そう最後に吐き捨てた藤真さんの声はやっぱり凍てつくように、冷たかった。彼はそのまま目を伏せて、小さくため息を漏らす。私は無意識に、「でも……」とぽつりつぶやいていた。藤真さんの視線が、ようやくゆっくりと私に向けられる。
「……でも、わたし、そんなふうに思えない」
「……は?」
「わたしは、藤真さんのお母さんのこと、そんなふうに言い切ること、出来ない……」
「……」
「弱いからって……切り捨てるようなやり方、」
わたしには——、
「そんなこと、私には出来ない。間違ってる。」
「……。」
シン、と鎮まり返る空間のなかで緊張からか、トクントクンと、私の心臓が音を立てはじめる。するとぽつり、今度は藤真さんがつぶやいた。
「……アイツと、同じようなこと言うんだな」
藤真さんの、冷笑を浮かべるようなその溜め息混じりの声が静まり返った部屋の中に響く。私は彼を見張り、すこしだけ眉間に皺を寄せた。
「月曜日、あいつが来たよ。」
「……あいつ?」
想い出はいつも痛みと切なさを伴う。二筋道の手前で、私は生きる意味をひたすら探していた。
目を細めて過去の記憶を見据えたとき——いま目の前にいる��婚約者�≠フ向こうがわに、微かにぼやけて見えたものは……。
「………、寿——?」
——遠くに、あなたが見えた。ただ私のそばで笑っている、高校生の頃の幼なじみの彼の姿が。
「……弱い人間を切り捨てるのは、俺が弱いからだって」
—— 寿 、
「一緒につぶされるのが怖いから、だから、逃げ出すんだろって……」
寿 ……
「余計なお世話だ。」
寿 ……!
「……あいつだって、逃げ出したんだろ?」
「え……?」
「お前から、逃げ出したんだろ!?」
勢いよく椅子から立ち上がった藤真さんに私は驚いて固まる。彼はソファのそばに置いてあった私の鞄の中からなにかを取り出した。それは私のアパートの鍵だった。
「この通り——お前はまだ、未練たっぷりだもんな?」
「藤真さん、」
「本当はまだ、三井のことが好きなんだろっ!?はっきり言えよ」
「わたしが……好きなのは——藤真さん、」
「嘘つくな!」
そう言って藤真さんは、乱暴にその鍵に付いたストラップを引きちぎろうと、手を掛けた——。
「やめてっ!!」
—— ガタン……! ——
私が立ち上がったことで椅子が後ろに倒れた。気が付けば私は藤真さんに抱き着くかたちで彼の動きを阻止していた。藤真さんはそんな私に抵抗するわけでもなく、はぁはぁと小さく息を吐いている。いつも冷静な彼が、珍しく感情的になっているということだけは私にもわかった。
「——それだけは、お願い……」
なぜだか、涙が溢れ出して止まらない。こんな姿を彼に見せてしまったらきっと勘違いをされてしまうに違いない。それなのにわかっているのに止まることを知らない、私の身勝手な涙。
私は薄情者だ。いつもなにかあるたびに、こうして泣いてばかりで。何度自分に誓いを立てようと、愛する人のために強くなんてなれないんだ。どうしてこうなるのだろう。なぜいつも私はこうなってしまうのだろうか……。
「俺は、おまえと傷を舐めあって生きるつもりはない」
「……っ、」
「俺はごめんだ……」
藤真さんの手から床へと虚しく落ちたバスケットボールのストラップがぶら下がる、自宅の鍵。私は彼から離れて、それをそっと拾い上げ、強く胸のまえで握りしめてその場にしゃがみ込んだ。頭上から、冷たい彼の声が私に降りかかる。
「……忘れかけてる思い出をほじくり返されて、振り回されるのはたくさんだ」
「……藤真さんとなら、乗り越えられると思ってた。いつかは、忘れられると思ってた……。」
「……」
「いつか——」
「いつかって、いつだ」
「……、」
「いつかじゃ、遅い」
なにも、言葉が見つからなかった。どうしたらいいのか、もう私にはわからない。だって、やっぱりなにひとつとしてこの人には、藤真さんには私の想いなんて、伝わらないのだから——。
「おしまいだな、俺たち」
「……え?」
「終わりにしよう、」
……え、藤真さん?
「無駄な努力を重ねて、お互いのことを、完全に嫌いになるまえに」
「……」
「別れよう。」
「……。」
��一生一緒に居て欲しい��——そんな約束を、彼にも求めた、わたしが悪かったの。好きだったのに。ただ、好きだっただけなのに。
藤真さんの言う通り、結局わたしは、母の事も寿の事も忘れられない。複雑に絡み付いた二つの思い出を、上手に解きほぐすことすらできない。痛くてボロボロになってグチャグチャで、もう、手に負えなくて。どうにもならなくて。遠い昔に捨てた恋のはずなのに。あの失恋を……あの頃の二人をどうして器用に��想い出�≠ノ出来るなんて思ったのだろう。消してしまいたい。想い出も、自分自身も、なにもかも。
今ならよく分かる。好きだった、間違いなく。藤真さんのことも……寿のことも。
ただ、好きだっただけなのに——。
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