24歳、冬(8話)
24歳、冬
― 24歳、冬 ―
彼との出会いは、今から数ヶ月前のこと——。
「あーっ、もう! なんで今日に限って……!」
寝坊した、やらかした、大事な会議なのにっ!とは言え、出来るだけ節約をしたい、などと案外冷静な頭で考える。
会社までタクシーで行くなんてそんなビップなことはできない。たとえ、遅刻をしたとしても。安月給民を舐めるなよ!だが今日は、そうも言っていられそうになかった。
「ランチ2回分は我慢だな……」
そんな事をぼやきながら急いで着替えを済ませ自宅の電気を消した。しっかりと戸締りをして、鍵をかけ、バタバタと騒々しくアパートの階段を駆け下りる。そうして歩道まで全力で走り運よくタクシーを見つけた私は「タクシー!!」と手を高々と突き挙げ、今週、いや、今月イチレベルの大声量でタクシーを呼び止めた。
……よし!間に合う。今日はツイてる! そう心の中でガッツポーズを決めながら、タクシーに乗り込もうとした、まさにそのときだった。
「悪いな!」
私の拾ったタクシーに華麗に割り込み乗車をしようとする一人の男性の姿。その見事なフットワークの軽さに圧倒されていた私であったが慌てて我に返り「ちょ、ちょっと!」と、思わず相手の手を引く。男性は、無遠慮にも心底鬱陶しそうな顔をして私を見下ろした。
「このタクシー、私が停めたんですけどっ!?」
「……そうか。俺急いでるんだ、じゃ」
「そうですか……って!ちょっと、ちょっと!」
「……」
「わ、わたしだって!もの凄く、ものすごぉ〜く急いでるんですけどっ!」
「……。はぁ、行き先どこ?」
「えっ?新宿、ですけど……」
「じゃあどうぞ」
男性は溜め息をついたかと思いきや、ニコリと微笑み私をタクシーの中へと誘導するように手を返し、まるで「乗ってください」という雰囲気で促した。「あ、どうも」と、私がタクシーに乗り込むと「奥に行けよ!」と、その男性も無理やり乗り込んで来て私は目を見開く。男性はそのまま私を気にする素振りも見せずに「出して。」と、偉そうに運転手に指示をしていた。
「——なっ、なに考えてるんですか!?」
「言い合いしてる暇ないんだ。新宿の次、四ツ谷で」
「——っ! あ……アンタねぇ!」
「文句あるか? あるなら降りろ」
「……っ」
なっ、なんなんだコイツ……!青天の霹靂とはまさにこのことだ。ありえない、信じらんない。彼との出会いは、本当に最悪だった。
*
「新宿です」
運転手のその声に朝から何だかいろんな意味で体力を消耗して疲れ果てていた私は「ハイ。」とだけ短く返事をして財布を取り出そうと鞄の中を漁る。
「えっと、財布、さいふ……あ、あれ?」
「……」
「うそ、えっ? おかしいなぁ……」
「いいよ。俺が払っておく。どうせ通り道だったからな」
「あ、いや。でも……」
戸惑う私に彼は渋々タクシーから降りて、私のことも降りるようにと、目だけで合図を出した。気まずくなりつつもタクシーを降りた私は、大変申しわけないとは思ったが、財布が見当たらないので、ここはお言葉に甘えることにした。
ぺこりとお辞儀をしたあと頭をあげるとスッと目の前に差し出されたのは、二枚の千円札。
「……え、なんですか?これ」
「財布忘れたんだろ?昼とか、困るだろ」
「で、でも……」
「あげるなんて言ってないぞ、貸すんだ」
現金と一緒に「いつでもいいから」と、自身の名刺を添えて、半ば無理やりに渡された二千円。いけすかない奴だと思った。強引で隙が無くて。けれど、とても気の遣える人なのだろうと、少し気持ちが綻んだのも事実。
「……あの、ありがとうございます。今日仕事が終わったら、必ず返しに伺います」
再度、頭を下げると彼は「じゃあな」と言ってまたタクシーに乗り込んだ。窓越しに、こちらを向くでもなく、彼は運転手に何かを話していて、間も無くしてタクシーは発車した。それが街角に消えていくのを見守る。排気ガスまで消え失せ、他の車の通行が、彼を乗せたタクシーの存在感を上書きしてしまう。それなのに最後のあの気まずさが、生々しくいつまでも顔の前に漂っている。彼がタクシーに乗り込んできたときに、ふわりと漂ったあの、青くスパイシーな香りとともに。
あの人、急いでいると言っていたけど。なのに親切にタクシー代を払ってくれた上に、こうしてお昼代との名目で気遣いまでしてくれた。それにしても……嵐のような瞬間だった。ふと渡された名刺に視線を落とすと、そこには大手一流企業の会社名が刻印されていた。
「
藤真
(
ふじま
)
……、
健司
(
けんじ
)
……?」
あ——。肩書きが��課長�≠ノなってる。
なるほどね……どうりで手慣れているわけだ、と、どこか納得した自分がいた。もしかすると、同い年くらいだろうか。見た目はかなり若かったように思う。だとしたら、まだ若いのにしっかりしてる。タクシーに乗り込んできた時は本当に最悪だったけれど。いずれにしても、やっかいなことになってしまったと私は溜め息を吐きながら急いで職場に向かったのだった。
*
「名字さーん、なぁに見つめてるんですか!」
自身のデスクでぼうっと藤真さんからの名刺を眺めていた私から、ひょい!とそれを取り上げる同僚。私は「あ」と思わず間の抜けた声を出す。
「キャ〜!ここ、一流企業じゃないですか!上場企業ですよ!?しかも、課長!?将来、有望じゃないですかぁ〜!!」
「……あ、あのねえ」
「合コンしましょ、合コン♪」
「ちょ、ちょっと!話をややこしくしないでっ」
私はその名刺を、彼女から素早く奪い返した。やめてよね、こっちだって頭が痛いというのに。
夜は財布を取りにアパートへ戻り、藤真さんの会社に向かおう。そうすると定時で上がらなければならないな、と悶々と考えながらその日を過ごした。しかし、そんな日に限って時間通りに事が進まないのが現実だ。結局、彼の会社に到着する頃、時刻は夜の八時を過ぎていた。
さすがに帰ってしまったかと思ったが、受付に確認だけでもと受付に立っている女性に恐る恐る声をかけてみた。
「藤真は本日退社したようです」
案の定、そう丁寧に淡々と言われてしまった。完全に、傍から見れば不審者だ。見慣れない私の顔に受付嬢も徐々に、不審な視線を向けてくる。警備員を呼ばれたりなんかしたら大変だと思い、「失礼します!」と頭を下げたあとすぐに、その場を立ち去った。
広々していて、きれいなエントランスだなぁ、さすが大手上場企業だ、と感心やら感動しながらエスカレーターを降り切ると、そこには今朝タクシーを奪い合った、張本人が立っていた。
「……! 藤真さん!」
「お、アンタ呼ばわり卒業か」
私は分かりやすすぎるくらいに漫画のごとく、ギクリという効果音を放ちながら「ス、スミマセンっ!」と、反射的に何故か平謝りをしていた。その様子を見て彼は鼻先で笑って言う。
「本当に来るとは思わなかったな」
「そんな!……わたし、ごまかしたりしません」
「だけど目先の事に囚われてコロっと忘れそうな感じがする」
「……っ」
う……。なにも言い返せない。隙が無いのよ、このひと本当に。それでいて、的を得ているから押し黙るしかなくなる。苦手なんだよねぇ、この手のタイプは。と、言葉に詰まってしまった私を見て小さく微笑んだ藤真さんは「飯どこ行く?」と、ごくごく自然に私の腕を引いて歩き出した。
「待ってください!私はお借りしたタクシー代と二千円を返しに来ただけですからっ!」
「飯くらい付き合えよ、先約でもあったか?」
「い、いや、ないですけど……」
「ないよな、じゃあ決まり」
ちょ。なっ、ないよなって……なんか、その、言い方……!
戸惑う私を完全にスルーして藤真さんは、私に腕を絡めたまま、ずんずんと歩き出す。え、えぇー。ど、どうしよう……。
*
「おいしい……!」
私はハヤシライスを口に頬張る。こんな隠れ家みたいなところにハヤシライス屋さんがあるとは知らなかった。今度、会社の子も誘ってみようと向かい合わせの席の藤真さんを見ると「だろ?」と、彼もハヤシライスを品よく口に運んでいた。
「……いつも、こういうことするんですか?」
「ん?」
「お金を貸しておいて強引に食事に誘うなんて」
「嫌ならついて来なきゃいい、面倒なら金なんて返しに来なきゃいいよ」
その言葉とは裏腹に、爽やかに淡々と言って、藤真さんはまた美味しそうにハヤシライスを口に運び出した。私は、眉間を寄せて少々声を張る。
「そんなこと出来ませんっ!親切にしてもらったんだから、ちゃんと、誠意に答えないと……」
「ふーん。でも、世の中もっと残酷だぞ?俺は、見ず知らずの人間に金を貸してそれが返ってくると思ってるほど、お人好しじゃない」
「へえ〜、寂しい人ですね。人の善意を信じられないなんて」
「……お前さ、トラウマになるような大失恋したことないか?」
私が一瞬、持っていたスプーンを落としかけたことを藤真さんは見逃さなかったらしい。そんな私の仕草を見て「そういうこと」と何故か誇らしげに彼は言った。
「善とか愛情とか、何の疑いもなく信じているんだろ?だからそういうことになるんだよ」
黙り込む私に「せめて年相応になった方がいいんじゃないの」と彼が吐き捨てる。カチン。もう頭にきた。こんな見ず知らずのいけすかない奴になんでそんな事を言われないといけないわけ!?
「——お言葉ですけど!」
私が声を張ると彼はハヤシライスを食べ進めていた手を止めて、こちらにチラと、顔を向けた。
「そんな、世の中を斜めからしか見れない人に、お説教なんかされたくありませんっ!」
「そんな子供みたいにムキになるなよ」
藤真さんは馬鹿にするように軽く嘲笑って私を宥める。——ガタン!と、勢いよく立ち上がった私は、足元に置いてあった自分のバッグを乱暴に拾い上げた。
「あ、あなたは!ただのへそ曲がりです屁理屈です、天の邪鬼です!失礼します!さようならっ!」
そう吐き捨てて立ち去る間際、「最後にひとついいですか?」と私が再度振り返り尋ねると彼はなんとも愉快そうに笑っていた。そうして「どうぞ?」と、椅子に背を預けて笑顔で促される。
「——みっ、見ず知らずの人に、おまえ呼ばわりされたくありません!」
「じゃあ今度こそさようなら!」と言って私は勢いよく藤真さんに背を向けズンズンと入り口に向かって行った。
「だって知らないもん、お前の名前!」
冷静に見えていた彼が少々声を張ったことに思わず私は足を止めて振り返った。
ああ、やってしまった。また立場を考えずに、勢いで。冷静になれ冷静になるんだ、私。向こうはタクシー代を払い、お金まで貸してくれた上にこんな財布も持たずタクシーに乗り込んだ何処の馬の骨かも分からない相手に、素姓のバレそうな名刺まで丁寧に渡してくれたんだ……多少、強引だったとは言え。その上こうして晩ご飯まで誘ってもらったのに自身の名前すらまともに名乗っていない私なんかが、いけすかないだの強引だのと私の方がよっぽどタチが悪いではないか。
「まぁ……名前を聞いても、二度と?会うことはないと思いますけど?」
ひとり頭の中で反省会をしていたら、彼がそう言い放ち、終いには鼻で笑られた。やっぱり……やっぱり、む、むかつく……!
私は返す言葉も見つからず赤面して、ぷいっと入り口の方を振り向き直してその場を後にした。
*
あれからずっと、彼のことを考えている。思い出すと腹が立って悶えそうにもなるがどうしても忘れることができなかった。
後日、その日は外回りをしていたのでランチは外食で済ませようと思い立った。何を食べようかと考えながら歩いていると、ふと目に入ったあのハヤシライス屋さん。私は無意識に、何故かそのお店の扉を、開けてしまっていた。つい数日前に見ず知らずの人と食事を交わしたお店だ。はぁ、と溜め息を吐きつつ店内に入る私。
あの後、気まずくはなかっただろうか。結構な声量で女性から怒鳴られた挙句、一人そこに取り残こされたわけだし……恥ずかしい思いをさせてしまったのではないか。誰かさんと違って一緒になって口喧嘩するタイプでも無さそうだしなぁ。落ち着いていて、どこまでも大人な対応で接してくる。会話の合間に見える嫌味や説教も、結局は図星なので何も言い返せなかったし。
その後、変りはないだろうか。しかも私、あのときの食事のお金すらも払っていない。社会人のくせに。
しゅんとなって、そんなことを考えていると、テーブルにあの日と同じハヤシライスが運ばれて来た。うん、美味しそう。スッと芳しい香りが、鼻を掠める。
「あ。」
その声にピクリと反応した私はパッと声のする方を見た。向こうも立ったままこちらの顔を確認すると「この間はどうも」と笑顔を向けてくる。そのまま「ここいいか?」と私の返事も聞かずに向かい側の席に腰を下ろし、前回同様に彼もハヤシライスを注文した。
「……名字、名前です。」
急な私からの自己紹介に藤真さんは一瞬、目を見開いたが、すぐにいつものポーカーフェイスに切り替わり「名前ちゃんですか」と、冷ややかな笑みであっさりと受け流された。
「あの、藤真さん……」
「……?」
「このあいだの、ご飯代……」
「いいよ。怒らせたお詫びだ」
「……、」
勝手にムキになって怒鳴ったのは私の方なのに人間が出来ているってきっと、こんなふうな人のことを言うのだろうな、となぜか客観的にそんなことを思った。
*
特に気まずい空気が流れることもなく自然体で食事を共にして、やはり今回も、私がお手洗いに立った隙に気づいたら、彼が全て支払ってくれていた。
私たちはお店を出て、なんだか後ろ髪を引かれつつも「じゃあ……」と私がぎこちなくその場を立ち去ろうとした、そのとき——。
「名前」
やけに柔らかく、優しげなその声に振り返ると相変わらず表情を変えないままの彼、藤真さんがそこに立っている。どうやら私の名を呼んだのは彼だったようだ。
「お前って言うと、怒るんだろ?」
自身の大声で騒ぎ立てた、あの日の記憶がまた蘇り、私は藤真さんから思わず視線を逸らした。
「言っとくけど……俺だって興味も何もない女を食事に誘ったりなんかしないから」
「……へ?」
「それとな?一人の男を思い続ける女ってのに、関心が無くもない」
「……」
どう返答して良いか分からず私は言葉に詰まっていた。そしてまた口癖のように、彼が言った。
「けどまぁ……今度こそ二度と会うことは無いと思いますから」
そう機械的な笑顔で言い放つと藤真さんは私の行く道とは逆方向へ歩いて行った。私はそんな藤真さんの背中をただ見つめていた。
会社の同僚がついこの間、得意先の若い営業担当の人に一目惚れをした。彼女が得意げに『第一印象が肝心だ』と語っていた事をふと思い出す。強く印象に残るのが重要だと。悪くても何でも、印象に残した方が勝ちなのだと。欲しいものは欲しいと攻めないと——そう言っていた気もする。
どうやら私の中で藤真さんの存在は悪かろうが何だろうが残念ながら強く印象に残ってしまったようだった。青天の霹靂——私の人生において、絶対に関わる事のない人種だと思っていたのに。
世の中、人を避けるより向き合う方が何倍も、何億倍も簡単なんだよね、きっと。
私にも何故かはわからないけれど、去っていく彼の後ろ姿を見つめていたとき過去に安西先生が言っていた『常に勝つことがエースなんです』という言葉が不意に蘇ってきた。本当に、何故かはわからないけれども。
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