嵐の前の静けさ

なんにせよ、まだ助けてもらった時のお礼が言えていないのだ。あの時桐山が現れなかったらと思うと今でも背筋がゾッとする。
美月は反射的にもしもの時のことを思い浮かべたが、すぐにそれを頭の中から掻き消した。今日からは楽しい修学旅行。そんなことに気を取られてる暇はない。


――しかしいくらお礼を言おうとした所で桐山が他の生徒のように毎日登校してくるかと言えばもちろんそんな事はなく。その為今日まで会えず、お礼どころか顔すら見ていないのだ。


「いけないっ 光子と貴子と待ち合わせしてるんだったわ」


ふと壁に掛かっていた時計に目が行く。時刻は待ち合わせの時間に差し迫っていた。
修学旅行初日は車中泊。何が好きなのか分からず無難にクッキーにしてみたが果たして桐山は受け取ってくれるのだろうか。いや、そもそも修学旅行に参加するのだろうか?そんな一抹の不安を胸に、美月は家を出た。





――――――――――――――――


「や、やだ 違うわ。ただお礼をと思っただけよ」

「ウソねっ だって美月ったら自分では気づいてないみたいだけど最近無意識に桐山くんの席を見つめては心ここにあらず、って感じでため息ばかりだったもの」

光子がそう言ってアイドルのように愛らしい笑顔を浮かべて微笑む。
現在美月を真ん中に右に光子、左に貴子という並びで学校に向かって歩いている最中だ。
修学旅行行きのバスは学校で生徒たちを乗せてから出発する為、美月達は普段通り学校への道のりを歩いていた。


冒頭に戻り、何故3人の間で桐山の話題が会話に上ったかと言うと、当たり前だがそれは美月が桐山にお礼を兼ねてクッキーを焼いたのだと光子と貴子に話したからである。


今までの経験上、そう言った人の心理を読み解くのに長けている光子は美月が桐山の事を気になり始めているのにすぐ気がついた。それは無論貴子も同じだった。


「まぁしょうがないわね。自分でも気づかないのも頷ける程の鈍感さだもの」


「だ、だから違うわよ…………多分」


最後にボソッと付け加えられた言葉は、恐らく自分でも分からず混乱したからなのだろう。
確かに桐山は誰がどう見ても全てを兼ね添えた完璧人間だった。眉目秀麗・頭脳明晰・スポーツ万能おまけに財閥の御曹司と非の打ち所がない、誰もが羨む完全無欠の少年。


しかし一つ粗を探すとすれば、それは彼が不良グループのボスだという事だろう。噂ではヤクザでさえ手も足も出ない程の格闘センスを持っているらしい。


その事から桐山ファミリー以外の生徒達はどことなく近寄りがたい雰囲気の桐山に、必要最低限の会話以外に自ら率先して話し掛ける様な事はなかった。
だが美月は他のクラスメイトのように桐山を避けたりなどという事はしなかった。


席が近かった事もあり、テストの丸つけで解答用紙を交換する時もあったり(勿論言うまでもなく満点以外の点数を見たことがない)と接点は桐山ファミリーを抜かした他の生徒達と比べるとよくあった方だ。


次の授業は何だったか、今日は寒いね、など他愛無い会話もした事がある。基本的に質問をすれば答えてくれるし、話しかければ無表情ではあるが頷いたりと反応を返してくれる。その為、クラスメイト達がなぜそこまで桐山を恐れ避けているのかが些か疑問だった。



――と、そんなことを考えているうちに美月達は城岩中学校の前に停車しているバスの前まで辿り着いた。
待ちに待った修学旅行に浮かれクラスメイト達がバスの前で立ち止まりながら仲の良い友人達と会話に花を咲かせている。


「さっ 美月の大好きな桐山くんはいるかしら」

「光子!」


からかってくる光子に美月がほんのり顔を赤くしながら抗議する。


(まったく照れた顔も可愛いんだから)


恨めしそうに自分を見つめてくる親友に光子がそんな事を思っているとも知らず、美月の内心は穏やかでなかった。
もし他のクラスメイトに…いや、桐山ファミリー、ましてや桐山本人に聞かれていたらと思うと気が気じゃなかったのだ。


しかしそんな美月の心配も杞憂に終わった。見たところ辺りに桐山や桐山ファミリーの姿はなかったからだ。
もうバスに乗っているのか、はたまた修学旅行には来ていないのか。美月はバスに乗り込む貴子の背中を追いかけ、その後ろに光子が続いた。


「美月 桐山いるわよ」


振り向いた貴子が再び前の方を向いてクイッと顎を軽く動かす。その先に桐山がいた。
最後尾の席の窓際。座席二つ分を空けて横に笹川竜平や沼井充が座っている。


美月は窓の外をじっと見つめる桐山に目を向けた。危ない所を助けてもらったお礼にとクッキーを焼いてきてはいたが、正直まともに学校に来ない桐山が修学旅行に参加するのは賭けだった。


周りが修学旅行に浮き足立つ中、桐山はただ静かに外の景色を眺めている(実際景色を眺めているのか何か他の考え事をしているかは定かではないが)。
冷え冷えとしているものの、相変わらず綺麗な男の子だ。


そう思っていたその時だった。外に目を向けていたはずの桐山の瞳が美月に向けられ、二人の視線が交わった。これには美月も目を見開いて驚いた。まさか桐山がこっちを向くなど思っても見なかったからだ。美月は桐山に軽く手を振ると居た堪れずパッと視線を逸らした。


先程光子や貴子と話した時の会話を思い出したからだ。いざ本人を前にしてみるとどうしてか、胸が高鳴った。
――やはり自分は光子達の言う通り桐山が好きなのだろうか。悶々とそんな事を考えていた美月だったが、突然前の方に腕を引かれて顔を上げた。
いつの間にか光子が美月の前に来てその腕を引っ張っていたのだ。


「光子?引っ張らなくても歩けるわよ」

「いいから黙ってついて来なさいっ」


語尾にハートマークが付きそうな弾んだ声色でそう言われ、美月が首を傾げる。
何故彼女はこんなにも楽しそうなのだろうか。
美月の腕を掴みながらどんどんとバスの後方に進んで行く光子に違和感を覚えたがその時にはもう遅かった。


バスの最後尾まで連れられ、何の前触れもなくとんっ、と光子に肩を押された美月は半ば強制的に後方にある座席に座らせられた。
――そう、最後尾の席。桐山の隣にだ。


「桐山くん 美月のコトお願いね」

パチンっと可愛らしくウインクを決めた光子に美月の顔が瞬時に真っ青になった。


「ちょっと光子…!どういう事なの、いきなり」

「あら別にイイじゃない。ねっ桐山くん 美月が隣でもいいかしら」


そういうのは美月を隣に座らせる前に言うべきではないか。いつもならそう思う所だったが生憎今はそれどころではない。美月はどきどきと心臓を煩くしながら桐山の答えを待った。


「かまわない」


凛とした声で静かにそう言った桐山に、強張っていた美月の表情が幾分か和らいだ。
もし断られたらどうしようかと思ったからだ。


一方桐山のその答えに満足そうな笑みを見せた光子は美月を見つめ意味深に微笑むとクルッと踵を返して空いている座席に座ってしまった。


因みにもう一人の親友・貴子はというと、光子の企みに気づき、既に適当な空いている席に座っていた。


確かにクッキーを渡そうとしていた為好都合ではある。だがもしかしたら自分は桐山の事が好きなのかもしれない。そう思いはじめた美月にとって、その男――桐山の隣に座るという行為はまだハードルの高いものであった。


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