「オレに…?」
「うん、そう。桐山くんに」
あれからというもの、クラスメイト全員が乗り込んだのを確認したバスは早々に城岩中学校を出発した。
光子の企みで桐山の隣に座る事となった美月は最初こそ照れた様子を見せていたものの、助けてもらった時の事と学生鞄の中のクッキーの存在を思い出したのだ。
今渡さなくてはタイミングを逃してしまう。
美月は意を決して桐山にクッキーの入った袋を差し出した。
「この前危ない所を助けてくれたでしょう?そのお礼…にしては貧相だけど、クッキーを焼いて来たの」
桐山は差し出されたクッキーを見てから、次に美月に目をやった。不安そうな表情。しかし桐山は美月が何故不安そうな表情でいるのかが理解できず、暫し考えた。
一方そんな桐山の内情を知らない美月はじっと自分を見つめたまま微動だにしない桐山にいてもたってもいられず、少しばかり上擦った声で言った。
「あ、でもねっ 迷惑だったならいいの!突然こんなの渡されても桐山くんも困るだろうし…兎に角助けてくれてありがとうって言いたかっただけだから」
言いながらすぐ様クッキーを引っ込めようとした美月だったが、いつの間にか伸びてきていた桐山の手に腕を掴まれ動きを止めた。
「桐山くん…?」
「オレに作って来てくれたんじゃないのかな?」
「で、でも迷惑じゃない?何か躊躇ってるように見えたから」
「迷惑ではない ――ただ少し考え事をしていたんだ」
桐山がそう言ってクッキーの袋を手に取った。
たったそれだけの事だというのに美月の心拍数が徐々に上がっていく。
ただお礼のクッキーをもらってくれただけ。甘い言葉を囁かれたわけでも、ましてや笑顔を浮かべ微笑まれた(実際甘い言葉どころか笑顔すら見たことがない)わけでもない。
――美月は桐山くんが好きなのねっ。
ふと、そんな光子の言葉が脳裏をよぎった。
じわりじわりと美月の頬に熱が篭っていく。好き。
そう、自分は桐山の事が好きなのだ。たった今、そう自覚してしまった。
美月はすっかり赤くなった顔を桐山に悟られぬよう手で覆った。その隣、桐山はというと、いつもの無表情は変わらずだが僅かに不思議そうな瞳で美月を見つめている。
その瞳は何故いきなり顔を隠すのかと言いたげなもので。
――そんな甘酸っぱい青春ドラマのような一場面を座席二つ分開けた隣――笹川竜平がギョッとした顔で見つめていた。
「お、おい充っ ボスと藤宮がいい感じに…!」
「見りゃわかる ――しかし藤宮がボスを好きだったとはなぁ 美人で男を見る目がある。ボスにピッタリな女だ」
「そうだな!さすがボスだよな あの藤宮を惚れさせるなんて」
自分たちの絶対的なボス・桐山がモテるのは当たり前の事だがその相手が学園中の誰もが認めるマドンナとくればまた話は違う。
全てにおいて完璧な人間である桐山と城岩中きっての美少女。おまけに性格も良く男女問わず友達が多い。
ここまで桐山とつり合う人間もそういないのではないか。沼井は美月の白い指の間から覗く赤い頬と、それをだだ静かに見つめる桐山を横目に満足そうな表情を浮かべるのだった。
――――――――――――――――――
時刻が夜の十時に近づいた頃だった。桐山はふと隣に座る美月に目をやった。
彼女は長い睫毛を伏せて眠っていた。
ついさっきまで本を読んだり、一言二言会話を交わしていた筈の彼女が。
そんな美月の体が時折バスの揺れに合わせて桐山とは反対方向に傾き揺れている。
同じ横並びの席に座る笹川に至っては上半身を座席二つ分開けた席の上に倒したまま眠っている。
大方バスの揺れでそのまま横に倒れたのだろう。
「……く……ん…」
「!」
眠っていた筈の美月の口から途切れた言葉が洩れた。が、どうやら寝言のようだった。
その間にも美月の体はバスの揺れに合わせカクン、カクンと左方向、つまり笹川の方に揺れている。
そんな様子をただ静かに見ていた桐山だったが、ちょうどバスが大きめのカーブに差しかかり、それと同時に美月の体が大きく揺れた。
このままでは笹川の上に覆いかぶさるようにして倒れてしまうだろう。――だがしかし美月は倒れなかった。そう、何故ならそれを見ていた桐山が倒れる寸前に美月の腕を掴んでいたからだ。
桐山は傾いた美月の体を元の位置に戻すと窓に反射した車内の様子を目に映した。車内中間辺りに座っている三村の体が座席から通路側にだらしなく傾いているのが見えた。
誰の話し声もしなかった。自分以外の全員が眠っているようだった。
いくら外が暗くともまだ夜の十時。全員が全員揃って眠りにつくにはいささか早い時間帯だった。それも修学旅行に浮かれていた生徒達なのだから尚更だ。
しかし車中の雰囲気がおかしいにも関わらず桐山の表情に特に変化はない。再び外の景色に目を向けようとした桐山だったが、その瞬間、ポスッという音と共に彼の肩に重みが乗った。
首だけを動かしそちらを見てみると、自分の肩に頭を預けるようにして美月が眠っていた。――その時いつだったか、美月を助けた時の光景が桐山の脳裏をよぎった。
「き、桐山くん!!」
恐怖に揺れた瞳の中、それでも光を失わずに自分を見つめていた。あの瞳を見たとき何故だか助けなければと思ったのだ。それと同時に美月のセーラー服に手をかけようとしていた男を見て気分が悪くなったような気もした。
親の徹底した特殊教育のもと、この歳にして既におよそ世界中のほとんどありとあらゆることを知っていた桐山にも、一体どうしてそう思ったのかがわからなかった。ただ直感的に助けなければいけない気がしたのだ。
自分なりにその理由を探してみようと暫く学校を欠席(学校を欠席するのは日常茶飯事ではあるが)してみたが答えは見つからなかった。
だが彼女の――美月の顔を見ると何故だかまたあの時のような、自分には到底わけのわからない何かが胸に押し寄せてくる感じがするのだ。
桐山は不可解なその"何か"について考えつつ、暫く自分の肩に寄りかかりながら眠っている美月を見つめ、次第にゆっくりと瞳を閉じるのだった。