誓いと救い
「ふぅー……っ」
宿から出て、人気の少ない建物の陰で座り込む。
その時、感じ慣れた精霊の気配を感知した。
『シーナ』
のろのろと頭を上げると、私の目の前で片膝をついて目線を合わせている青年がいた。
私と契約している精霊王コスモだ。
吐き気ばかりで声を出せない私に、くっ、とコスモは眉を寄せて私の喉に触れる。
『深呼吸して。ちゃんと息しないと駄目だ』
コスモに言われて、私はちゃんと息をしていないことに気付く。
浅い呼吸じゃなくて、深呼吸を繰り返す。慌てると頭が痛くなるから、ゆっくりと。
ようやく吐き気が治まって、息を深く吐き出す。
「……ごめんね」
『いや、謝るのは僕の方だ。あの人間が花嫁候補になったことを言わなかった』
「いいよ。こうなるなんて、誰も予測できないから」
本心からの言葉を言うけれど、コスモは沈んだ表情で視線を下げた。
まるで捨てられた子犬みたいな姿だ。
思わず苦笑してしまい、コスモの頭を撫でる。
『わっ!?』
「くよくよしない。私は大丈夫だから」
私は大丈夫。いつものおまじないを心の中で繰り返す。
でも――
『嘘だ』
コスモは眉を吊り上げた。
『大丈夫じゃない。娼婦とか、薄汚れた魔女とか、あんな暴言を言われて平気なわけがない』
……聞いていたんだ。いつからこっちに来ていたのだろう。
いつもならすぐに気付いているはずなのに気付けなかったなんて、今日の私は駄目だなぁ。
そんな風に違うことを思うけど、コスモは苦しげに顔を歪めた。
『君はいつも我慢ばかりだ。お願いだから頼ってよ』
コスモが泣きそうな顔で私の頬に触れる。
微かに感じた温もりで、張り詰めていたものが途切れた。
目の奥が痛いほど熱くなって、ぼやけて、涙のせいで目の前が滲む。
大粒の涙が、買ったばかりの服の袖とズボンの膝頭を濡らす。
「……苦しいよ」
『……うん』
「こんな感情、持ちたくないのに……! どうして……!」
本能的な自己防衛反応で、頭を抱えてしまう。
「こんな私……いっ、嫌だ……! 気持ち悪いよ……!」
持ちたくないはずの黒い感情が胸の奥に広がる。
普段なら感じないはずの負の感情が溢れ出して止まらない。
「憎しみなんて、持ちたくないのに……!!」
胸の奥に溜まった想いを吐き出す。
こんな情けない姿は誰にも見せたくないのに、コスモの存在に救われている。
まだ、思い止まれる。
「怖いよ……! 私が……私じゃなくなりそうで……! こんな私、もうっ……!」
『シーナ……』
コスモの声で、吐き出したい想いを声に出す手前で止める。
危なかった。私……『消えたい』って……『死にたい』って、言いかけた。
この言葉はコスモを傷つけてしまうから極力言わないようにしている。だけど、どうしても出そうになる。
一度だけ、コスモの前で言ったことがある。あの時のコスモはとても傷ついた顔になって、私も罪悪感から泣いた。
もう二度と、私のせいで苦しませたくない。
でも、このままではきっと間違いを犯してしまいそうで……怖い。
「コスモ。私が憎しみで人を傷つけそうになったら、私を止めて」
だから、枷役を頼もう。
私が憎しみで誰かを傷つける前に止めてほしい。
私も、憎しみで誰かを傷つけたくない。
「もし止まらなかったら、その時は――」
――私をコワシテ。
小さな声で言うと、コスモは瞠目した。
殺すのではない。こわすのだ。
心を、魂を、存在を――私の全てを。
『私』という存在を根本から滅ぼしてほしい。
死より残酷な願いだと解っている。だけど、これじゃないと止まらないかもしれない。
でも、そこまで思い詰めてすぐ思い止まる。
契約精霊は契約者を害することはできない。精霊の界隈では醜聞に繋がるのに、どんな理由であれ殺害してしまうと精霊の魂が穢れてしまう。
コスモに罪を負わせたくない。だから『あの時』、コスモの暴走を止めた。
それなのに、こんなお願いしかできないなんて……最低すぎる。
「……ごめん。今の、忘れて……」
建物の壁に手をついて、ゆっくり立ち上がって、手の甲で涙を拭う。
すると、コスモにその手を掴まれた。
驚いてコスモを見ると、彼は私の手の甲に口付けを落としていた。
「コスモ?」
『――我が名の下に、我は誓おう』
コスモが告げた途端、ドクンと空気が震える。
まさか……
『我、精霊王コスモは、契約者シーナの願いを尊重し、暴走を止めよう。そして止まらなければ――その存在を破壊する。我が名に懸けて、契約者シーナの心を救うと、ここに誓う』
一度だけ聞いたことがある。精霊王自身の誓いは、どの精霊の誓いよりも頑強で、どの精霊の誓いよりも厳しい、一種の戒めであると。
私なんかのために、本当に誓約してしまったのだと理解した。
罪悪感に打ちひしがれる中、コスモは泣きそうな顔で笑った。
『君の初めての願いは必ず守る。約束する』
コスモは覚悟をもって誓ってくれた。
私の暴走を止め、存在を滅ぼす。本当は抵抗したくても、私の心を守るために。
――ごめんなさい。
「――ありがとう」
謝りたいけれど、きっとコスモは望まない。
だから私は、泣きそうな感情を押し殺し、感謝の気持ちを伝えた。
笑顔は変に歪んでしまったが、コスモは優しく微笑んでくれた。
「……シーナ」
その時、とても掠れた男性の声に呼ばれた。
ハッと見れば、酒場にいるはずのアレンがそこにいた。
何か途轍もない衝撃に襲われたような、とても傷ついた表情で私を見つめている。
どうしてここに? いや、それより……どうしてそんな顔をしているの?
「どうして壊してほしいなんて願ったんだ」
「……え?」
聞かれていた? いや、待って。アレン、精霊が視えるの……?
魔力が強い人間なら目視できるが、普通の人間は精霊を視認できない。
つまり、アレンは私と同じくらい魔力を持っているということ。
コスモを見れば、苦笑気味に肩を竦めた。
……盗み聞きされていたの、知っていたのね。
「精霊王に存在を壊されることは、消滅することと同じだ。解っていて願ったのか」
アレンは、コスモが精霊王だと気付いている。しかも、私の願いを聞かれた。
コスモ以外、誰にも知られたくない、踏み込まれたくない、私の闇の一端。
胸が苦しくなるほど痛むけれど、否定しても意味がない。
首肯すると、アレンは眉間の皺を深めた。
「生きたいとは思わないのか?」
「思わない」
食い気味に否定してしまった。
だって私は、「生きていい」と、「幸せになっていい」と思えない。
「私にはコスモ以外、何もないから」
コスモがいるだけで充分だ。精霊王が味方でいてくれるなんて贅沢だ。
そう思っても、どうしても「生」を否定してしまう。
「家族のために生きようと思わないのか」
――最も触れられたくない、闇の中核を突かれた。
「思ったよ。家族の分まで、幸せになろうって」
家族のため――それは何度も思ってきた。
こんな私を愛してくれた。
こんな私を守ってくれた。
誰よりも何よりも幸せになってほしい、大切な人達の想いを無駄にしたくない。
けれど、それがより一層、私の心を苦しめる。
「……でも、私のせいで家族は死んだ。そんな私が、のうのうと生きていいなんて思えない」
私のせいで、家族は死んだ。
私のせいで、みんなが不幸になった。
「私は醜い人間だよ。こんな私が幸せになっていいはずがない」
今度こそ幸せになりたくて転生したのに、家族に不幸が舞い込んだ。
こんな私でも愛してくれる、私が愛する家族と幸せになりたい。
……そんなささやかな願いさえ、今世では叶えられない。
私が幸福を願ったせいで、愛する家族を不幸にしてしまった。
大切な人達を不幸にする私が、生きていいはずがない。
むしろ、生まれたこと自体が間違いだった。
後悔と絶望と失意に呑まれた前世と、何ら変わらない生き地獄。
私は、どうしようもなく醜い――。
「醜くない」
離れないといけないと思っても、虚脱感から身動きが取れない。
他人の前で弱るなんて初めてのことで、私自身でさえ正しい行動が分からない。
絡まった毛糸のような思考回路が気持ち悪い。荒れ狂う精神を正常に戻そうと必死になっていると、涙で体温を失った頬に彼の手の熱が当たる。
宮廷魔導師にしては珍しい、長期にわたり武器を握った経験のある者と同じ武骨さ。それでいて形の綺麗な指だった。
「人を憎んでも、その憎しみで人を傷つけることを望んでいないだろう? あの村でも、人助けはしても傷つけようとしなかっただろう?」
「……!」
「憎めば楽になる。けど、それで自分を見失う恐ろしさを誰よりも知っている」
私は憎しみを抱えている。でも、他人を傷つけることに慣れてしまえば、今以上に醜い人間になってしまうことを知っている。そもそもコスモの精神状態を宥めている側が暴力に走れば無意味に終わってしまう。
だから耐え忍んでいるのに、どうして他人であるアレンが気付くの?
「誰よりも優しい君が、醜いはずがない」
私は優しくない。ただの偽善者だ。
心ではそうやって否定しても、アレンの言葉が心に沁みて、熱い感情が込み上げる。
熱くなった目の奥から涙が溢れて、涙腺が決壊したように止まらない。
自分の弱さが嫌になる。けれどアレンは、私の涙に何も言わない。それどころか頬を包み込むような手つきで撫でた。
もう二度と得られないはずの温もりが染み渡って、無意識に頬を寄せてしまう。
こんな面倒臭い私の心を救いあげようとしてくれる人が現れるなんて奇跡だと思う。
「……ありがとう」
もっと言うべき言葉があるはずなのに、その一言だけが溢れた。
それだけ私の中で、アレンの存在が強く刻まれた。