ナディアが帰ってきた。怪我はなく、無事な様子で。
だが、心に傷を負った涙に、僕も胸が痛む。
同時に安心した。彼女は人の心を失っていないのだと。
戦争は倫理観を手放す。人殺しに慣れたら怖いと思う。
けど、ナディアは正常な心を保ったまま帰ってきてくれた。
罪悪感で押し潰されそうな姿は心苦しくて、僕に嫌われないか恐れる想いは愛しくて。
心の限界が来る前に泣かせてあげると、軽い熱を出してしまった。
焦ったけれど宮廷医師のおかげで熱は下がり、安心して看病する。
そうして伝えられた、「愛してる」の言葉。
胸が苦しくなるほど心臓が高鳴って、もっと触れたい衝動に駆られる。
でも、まだ駄目だ。互いに子供だし、結婚するまで清くいてほしい。
眠ってくれて少しは落ち着いたけれど、少し不味い気がする。
そんな時にナディアの祖母、ソフィア殿が見舞いに来た。
「孫娘が申し訳ございません」
「いや、むしろ看病できて嬉しいよ。ナディアは自分に厳しすぎるからね」
この先、ナディアは多くの試練を受けるだろう。
だから今のうちにたくさん甘やかしてあげたい。そう言えば、ソフィア殿は微笑む。
「ナディアを大切に想ってくれているのですね」
「もちろんだ。彼女は僕の最愛だから」
「まあ……! 私の孫娘は幸せ者ですわ」
嬉しそうに笑うソフィア殿は、僕の祖母と同い年。しかも親友の間柄だ。でも、どちらかと言うとソフィア殿の方が若々しく見える。
きっとフィリア商会の美容品と、彼女自身の努力があってこその結果なのだろう。
「それは僕にも言えることだよ。彼女ほど僕を愛してくれる人は、きっといないだろう」
ソフィア殿は感激するけれど、それは僕も同じこと。
ナディアの絹のような髪に触れて癒されていると、ソフィア殿ははにかむ。
「では、私は
「奇跡……確かに奇跡だ」
愛しい人と相思相愛であることも、ナディアが無事に戦場から帰ってくれたことも。
ナディアが無事に帰ってくることを祈りに、何度も教会へ足を運んだ。それが叶ったのだから、これほど神様に感謝したことはない。
次に教会に行くときは、たくさん祈ろう。
しばらく話に花を咲かせると、部屋に客が訪れた。
ウィリアム・ガスリー軍務大臣補佐官。ガスリー公爵であり、ナディアの弟の養父。
そして、彼の側には五歳の男の子――ヨシュアがいた。
フェリス辺境伯の血筋特有の、空色を帯びる銀髪。母親譲りの明るい青色の瞳。顔立ちは中性的で可愛らしいが、将来は色男になりそうだ。
ガスリー公爵に合わせて、ヨシュアがお辞儀する。
楽にしてくれと言えば、二人は姿勢を直した。
「ガスリー公もナディアの見舞いかい?」
「ええ。此度の戦は、フェリス辺境伯がいなければ勝てなかったとお聞きしました」
「だろうね。そのうえ敵陣の魔術師を保護する
僕の称賛に、ガスリー公爵は深く頷く。
一方、ヨシュアは信じられないという顔で動揺していた。
「ん……ぅ……?」
その時、ナディアが小さく呻いた。
少しうるさかったかな、と反省しつつ、目覚めたナディアに向く。
「ナディア、気分はどう?」
「……ん。大丈夫」
掠れた声で応えて、緩やかに微笑む。
ほっと安堵する僕の隣で、ソフィア殿が湿っぽい声を出した。
「ナディア、本当に大丈夫? 怪我はなかった?」
「……おばあ、さま?」
ソフィア殿に気付いたナディアは目を見張り、溢れる涙がこめかみに流れる。
やはり家族の存在は大きいようだ。
改めて実感するなか、ソフィア殿も涙を流して彼女の手を握った。
「おかえりなさい、ナディア」
「……帰りました、お婆様」
声は震えているけれど、ナディアは嬉しそうに笑った。
ソフィア殿は
「ナディア、ガスリー公と、君の客が来ている」
「お客さま……?」
呟いてガスリー公爵に向いたナディアは、一瞬で息を呑む。
ヨシュアは体を固めて身構えるが、
ナディアは頬に涙をこぼして、柔らかく微笑んだのだから。
「フェリス辺境伯、この度は戦へのご助力感謝
空気を読んだガスリー公爵が先に声をかける。
気付いたナディアは、浅く頭を下げる。
「いえ、お力になれて良かったです」
「
「ありがとうございます、ガスリー公爵閣下」
心からの柔和な笑顔で礼を言ったナディア。
律義な姿勢にガスリー公爵も頬を緩め、ヨシュアを
視線の意味に気付いたナディアは
「久しぶり、ヨシュア。三年も経つから、覚えてないかしら」
「……はい」
ナディアは寂しげに
戸惑いを隠せないヨシュアは、ぎこちなく頷く。
「……そう、よね。あの頃の貴方は二歳に満たなかったし。私にできたのは、お花を贈ることだけだったから」
「……え?」
ナディアの思い出話に、ヨシュアが反応する。
「貴方に会うのはあの人達……両親が許してくれなかった。だからこっそり庭に咲いている小さな花を贈っていたの。特にネモフィラは間引いても誤魔化せたから、青い花を贈ることが多かった。……でも、それを妹……マリーナに知られて、領地に送られて、王都に行けなくなった。……ヨシュアに、会えなくなってしまって……」
ナディアにとって、ヨシュアは可愛い弟だったのだろう。
湿っぽい声音で語った彼女は、深呼吸をして心を静める。
「ごめんなさい。貴方の側にいられなくて。両親と、貴方の姉と引き裂いてしまって。私が許せないなら許さなくていい。憎んでも、恨んでもいい。……でも、私がヨシュアを大切に想っていることは、少しでいいから
それはナディアなりの決別だった。
無理やり和解するのではなく、相手の心を尊重して、相手に選択を与える。
ナディアはたとえ嫌われても、つらくても苦しくても受け入れるのだ。
もどかしく思っていると、ヨシュアが恐る恐る歩み寄る。近づいた彼は、ポケットから一つの
やや枯れ始めている花の栞を見たナディアは、ハッと目を見開く。
「……持っていてくれたの?」
「お姉さまが作ってくれたって、ゾラ……ぼくの侍女がわたしてくれた……んです。お花のこと、マリーナお姉さまに言っても、マリーナお姉さまは知らないって……」
……なるほど。あの栞はナディアが作ったものなのか。
よく見ると、裏に文字が書かれている。
「『ヨシュアに幸福がありますように』。そう書いているっておしえてくれたんです。……ほんとうに、ぼくのお姉さま……なんですね」
自分と同じ髪色でも判りやすいと思うが、そうでもないのか。
目に見えない思い出という形で繋がりが作られていたのだ。
ナディアを見れば、彼女は涙をこぼして笑っていた。
温かくて、優しくて、深い慈愛が込められた柔和な笑顔。
ソフィア殿が手巾を渡すと、ナディアは目に押さえつける。
肩が少し震えているけど、きっとこれは嬉し涙。
「ナディア」
「……うん。ごめんなさい、嬉しくて」
少し掠れて湿っぽい声。それでも顔を上げて、明るい笑顔を見せた。
「ヨシュア。憶えていてくれて、ありがとう」
喜びも悲しみも、すべて呑みこんだ笑顔で礼を言った。
ナディアは強いけど脆い。でも、それ以上に愛情深くて、感謝の気持ちを忘れない。
だから僕は、ナディアが笑っていられるようにしてあげたい。
ヨシュアの説得は苦労したけど、この笑顔を見れただけで満足だ。
「おねえ……さま……っ」
とうとうヨシュアが泣き出した。
手に縋りついた彼をナディアは受け入れて、反対の手で優しく頭を撫でる。
ソフィア殿も貰い泣きしてしまい、ガスリー公爵から手巾を差し出され、目元を拭う。
ようやく大団円を迎えたように感じて、僕も笑顔が浮かんだ。
ヨシュアが泣き疲れて寝てしまい、ガスリー公爵が抱き上げて帰っていく。
ソフィア殿も一度帰り、明日にはナディアを迎えに来ると言う。
正直に言うと、もっと
「ルシアン、本当にありがとう。昨日のことも、ヨシュアのことも」
……どうやら僕が裏で何かしていたのだと気付いたようだ。
隠すつもりでいたけど、ナディアの感謝の言葉は心地よくて癒される。
「ナディアは弟君を心配していると聞いたからね。君の憂いが払えてよかった」
ナディアが心から笑えるように、笑顔が
だから僕は、ナディアを支えようと決めたのだ。
愛しているからこそ、彼女には笑っていてほしいと強く願った。