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ナギャダの街は随分と立派なものだった。少し湿った感じの薄暗い森を抜けたら、目の前に忽然と、圧迫感を持って現れるのだ。見たこともない高い建造物が密集して、群れを成している。無機質な色合いばかりが屋根を覆って、そこだけ刃物で器用に切り取られたような、違和感と不気味さもあった。
ともかくもう日暮れで、星の光もいくつか見え始めている。門番が2人いるが、彼らも賑やかに歩く観光客達相手に「入るなら早くしろ!」とまくし立てていた。流石にここに来て野宿は勘弁願いたい。
順番がようやく回ってきたので門番に「安めの良い宿は知らないか」と尋ねる。門番は心底面倒くさそうな顔で「この先の区画は宿場街だ。安宿なんて腐る程にある」とあしらってきた。だがそんなもので下がる訳にはいかない。夜はもう目の前で、多数ある宿を一軒一軒渡り歩く体力は残っていないのだ。しつこく聞くと「真正面の通りにフェジュカスって宿屋がある。後は探せ」と強引に追い払われた。
仕方なしに街の門を通り過ぎたところで、はたと足を止めた。日が落ちて暗くなっていく空に、月が2つある。青と黄色。黄色の方が少しばかり大きい。この地域でしか見られない特異な現象だろうか。しばらく呆然と眺めていた。門が閉ざされる大きな音で、さらに暗くなっていく周囲に気づき、宿探しへ急いだ。
――――
「一泊と言わずに、もっと泊っていってくださいな」
幸いにもすぐに「フェジュカスの宿」は見つかった。門番の言った通り、目の前の大通りに立地する好条件の物件である。しかし私が宿へ入った時には、人は店番であろう女性だけで、通りの声が響くがらんどうであった。ほんの一瞬硬直したが、多分気付かれていないはず。
しかし珍しい事もあるものだ。質の悪い宿でもこの時間帯には2、3人いるのが当たり前だと思っていた。宿に何か問題があるかもしれない。用心しておこう。
やや警戒しながら料金の相談をして――十分連泊ができる内容だったが――私はあえて一泊の素泊まりを頼む。長旅で分かったことは、宿屋の全てが善意的ではない事。特にこういう好立地の安い宿はである。とんでもない因縁を付けられることもあったので、ひとまず様子見という訳だ。
しかしこの娘。吹っ掛け料金や客の懐を探る感じが全くない。「簡単な食事なら無料で提供できますよ」と、必要ないと伝えたにもかかわらず、やけに押してきて参った。勿論丁重に断りはしたが、彼女は先程から花が咲いたような笑顔を見せている。私だけ非常に気まずい思いをしているのは何故か。だが念には念を入れさせてもらおう。
署名と金の受け渡しを済ますと、彼女は鍵を取り出しカウンターから離れた。
「うちだけお客が少ないから、ちょっと困っていたんです。そんなに見栄えは悪くないはずなんですけどね」
「ご案内しますね」と娘が先を行く。娘が言う通り、宿の見栄えは悪くない、と思う。自分の美的感覚が周囲と比べてどういうものかは何とも答えようがない。
と言っても、宿の随所にあしらわれた装飾は、ささやかな気品を醸し出している。扉の一つとっても、丁寧な仕事の品なのは分かった。「見栄え」で言うなら多少物足りないが、古美術的美しさは十分あると思う。
ただ一つ気がかりなのは、視界にちらちらとクラゲのようなものが映ることだ。クラゲなんて飽くまで本で見ただけで、「実際のクラゲ」がどんなものかは知らない。でもこの独特な姿は「クラゲ」だと断言できる。
気のせいかもしれない。いや、気のせいであって欲しいのだが。クラゲが空を飛ぶなどと、聞いたことがない。疲れから幻覚でも見ているのか? 先を行く彼女には見えないのか気づいていないのか分からないが、顔の脇を掠めるように通過したのに反応がない。口にするのも躊躇してしまう。
きっとコレのせいで客足が遠のいたのではないか? 来て早々、とんでもない当たりくじを引いてしまったようだ。
「おい、おい、お前。イル・メ・トーラの眷属よ」
背後から聞いた事のない音が響き、思わず振り返った。何だ今のは。今誰かが喋ったが「クラゲが喋った」のか? 視界の中にはクラゲしかいない。あの娘は私の前を歩いていたから、そもそも背後から声をかけることはできない。
クラゲは私が振り返ったことに対し満足そうにしている。奴に表情はないので、あくまで私の感覚だが。
「そうだ、お前だ。うん? ……まだ紋章は知らぬようだな」
クラゲと、恐らくクラゲが話している内容に理解が及ばず硬直する。すかさず宿屋の娘がクラゲへの視線をさえぎるように割り込んできた。
「お客さん! お客さんの部屋は向こうですよ」
彼女は慌てながら、私に移動を急かした。ぐいぐいと背中を押されるままにすれば、背後から「何故だフィリマーリス!」と声が聞こえてくる。やはりあのクラゲが話しているのだろうか。
……待て。先程の行動をとった彼女には、あのクラゲが見えているのでは?
階段を上がりかけたところで、クラゲの事をそれとなしに聞こうとした。すると「部屋には備え付けで机とランタンがありますから」「寒いようでしたら布団も貸し出しますよ」「他に必要なものがあれば、用意できる物だけですが準備するので遠慮なく言ってくださいね!」と、矢継ぎ早に話をされて会話が成立しない。そのまま慌ただしく部屋に通された。そして娘(恐らくフィリマーリス)は「どうぞごゆっくり」と一言告げ、すごい勢いで扉を閉めた。電光石火とはこの事か。あまりの速さに尋ねる機会を失った私は、ぼけっと立ち尽くし扉を眺めていた。その時だ。
「よく来た、我が眷属よ。待ちかねたぞ」
背筋にぞわぞわと、何かに弄られるような感覚が走る。快楽的な衝動も沸き起こった。しかし同時に酷い頭痛に襲われ、衝動的に頭を押さえる。視界がにわかに歪む。ゆっくり振り向けば、そこには黒い霧が立ちこめていた。「何か」いる。何かいるが、分からない。ただ響き渡る美しい声が、私の正気を繋ぎとめていた。
「愛おしき眷属よ、その身を予に捧げ賜えよ」
――――
「あの人イル・メ・トーラみたいだったけど、叡者のことは知らなかったようね」
宿屋の娘、フィリマーリスはつぶやく。あの客の反応は、街の外から来たイル・メ・トーラとすっかり同じだった。もしかしたら、自身が「それ」だと気づかなかったか、知らなかったのかもしれない。
「だろうとも。あの眷属は紋章を知らぬ。今の今まで我ら叡者と会ったことも無いに違いない」
フィリマーリスの傍らにいる、何とも巨大な青白いクラゲが答えた。カウンターの上に堂々とその身を乗せ、体から生えている無数の触手をうねうねと遊ばせている。フィリマーリスはそれをうざったそうに払い除けながら、台布巾を滑らせた。
「ともあれ、フィリマーリス。何故私の話をあの時遮ったのだ」
「旅の真っ最中かもしれないのよ。泊まりは大歓迎だけど、余計な知識はない方がいいわ」
「『私』が、余計だと言うか貴様は」
「当然よ。『余計な知識』をつけた結果これなんだもの。宿のカウンターに居座って、誰彼構わず声かけるし。……お客が逃げていい迷惑だわ。今だって逃げられそうだったのに」
「そこから退いて頂戴、ホワラ様」と語尾を強調してフィリマーリスは言う。クラゲ、もといホワラはやや不満そうに体を動かし、空中へと浮き上がった。
「まあ、あの眷属は、もうナギャダから去る事はないだろう」
「え、なんで?」
「『イル・メ・トーラ』があれを見つけたからだ」
「どういう意味よ。私と彼以外に、近くに誰かいるの?」
「今は知らない方が幸せ、というものだ。お前は知らぬ方が良いのだ」
ホワラはただそう言って、彼女の疑問に答えることはなかった。
【 青い月、黄色い月 】
ナギャダでしか見ることのできない、大小二つの月。青い方が小さく、黄色い方が大きい。
ナギャダと言われる地域のみ、この二つの月を見る事ができる。少しでも外れると、黄色い月はかすむ様に消え、見えなくなる。
多くはこの月を美しいと言う。しかし自愛の如く降り注ぐ黄色い月光は、直視すればたちまち人を恐慌へ導くのだ。
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(投稿:2018.04.26)
(加筆修正:2020.02.10)