ナギャダの街から北西へ、川を挟んだ対岸の丘。くたびれた墓石と、夜の冷たさが落ち込んでいくせいで、人の寄り付かない場所である。
 「派手にやり合うならここが一番だろう」と、ヤガタとネペンテスは怪しまれないよう「逃げ道」を選びながら来た。そこにステンタフも合流し、例の怪物が姿を見せるのを待ちわびていた。

「いくら何でも遅いんじゃないか? 気づかれたのか」

 長い沈黙にたまりかねて、ネペンテスが口を開く。ヤガタは唸り、ステンタフの顔も焦りが見える。

「気づかれるはずがない! 俺は慎重に事を運んだ。アンタ達だって、良くやってくれたじゃないか」
「信者達も、疑う素振りすらなかった。気づくはずないさ!」

 ステンタフは最初声を荒げたが、すぐに冷静さを取り戻した。自分に言い聞かせるように、言葉の区切りを強く取っていた。三人の間には沈黙が生まれた。誰もが「もしかしたら」と隅の方で考えていた。しかしそれも杞憂であった。その沈黙は、意外にも彼らの待ち人が打ち破ったのだ。

 三人の背後から、彼女は沸いて現れる。突然の気配を感じた彼らは、ぎょっとして、けれどすぐに身をひるがえし、距離を取った。視界に入るのは確かに女性、ミルユリルその人である。彼女は酷く美しい顔立ちで、息を呑むほどである。だが彼女の表情は、氷のような生命を感じさせない凍て付いたものだった。

「我らが『女王』がおっしゃっていた通り。好きにさせて正解でした。……今宵は三人も得られるのです。僥倖ぎょうこうであると『女王』に感謝せねばなりませんね」、

 彼女の声は誘惑的だった。耳に心地よく、思考が溶けるような感覚を覚える。側で囁かられれば、たちまちとりこになるだろう。だがそうならない空気が漂っていたのも事実。ヤガタは尋常ではない恐怖を感じ、ネペンテスは「あの夜」の気配から脂汗をかき、ステンタフは肝が冷えていた。

「では始めましょうか。私も空腹でなりませんので」

 霞のように姿がくらむと、黒い化け物へと姿を変えた。そこに美女はいない。いるのは「自分達を食わんとする化け物」である。爛々らんらんと光る赤い目玉は、血に飢えた獣そのものであった。


「構えろっ!」

 ヤガタが叫ぶか否か、ミルユリルは驚異的な速さで眼前へと移動していた。彼は間一髪、従者への変身を間に合わせたが、避ける猶予ゆうよはなく、軽く吹き飛ばされた。墓石が立ち並ぶ中でも、ミルユリルは簡単に距離を詰めていく。ネペンテスはすかさず横槍を入れるべく、携える斧鎗をもって斬りかかった。が、簡単にいなされてしまし、足場の悪い方へ逆に追い込まれていった。頑丈な盾を前にして、凄まじい攻撃を防ぐ。金属の悲鳴ががなった。

「どこ見てやがる化け物!」

 稲光のよう一閃が、ミルユリルの体を貫く。ステンタフはいつの間にか移動し、高台へ上がっていた。矢をつがえながら彼は、目標を睨み付ける。ミルユリルの胴体から派手な血飛沫ちしぶきが出たが、見た目より傷は浅いらしい。しげしげと自分の指に付いた血を眺めて、こちらに一瞥いちべつを寄越した程度であった。傷口はたちまちふさがっていた。
 これは不味いのに手を出したのかもしれない――。ネペンテスとステンタフは、ようやく相手の異常さに気が付き始めていた。


「ゲフッゲフッ。……糞っ、何だあの速さは!」

 墓場の端の方まで吹き飛ばされたヤガタは、えぐられた腹を抑えながら何とか立ち上がった。用心に用心を重ねて「血薬」を持ってきてよかった。傷口は薬で塞がる。急いで二人の元へ戻らねば。
 遠目に見えるのは、ネペンテスが大楯で必死に耐えている姿だ。斧鎗でどうこうする余力は感じられない。ステンタフの稲妻のような矢が時折光を発しているが、避けられているのか、ミルユリルの動きはあまり鈍っていない。
 駆け出したヤガタは、この戦いに勝利するための算段を考えていた。想定外の強さを持ったあれに対して、真っ向勝負は危険だろう。少々卑怯な手も致し方ない。腰のポーチから左手に、ある「劇薬」の小瓶を忍ばせる。「これは『腐り血』。決して同族に使わぬように」、アヴァランギスタ教会に念を押されて渡された物である。それ程危険な代物なら、今使う以外ない。これ一本で済めばいいが――。悪臭を放つ心許こころもとない液体に、一抹の不安を抱える。

 正面を切って戦う二人に手を上げて合図を出した。
 それを目に入れたステンタフは、凄まじい勢いで矢を放ち始めた。威力は期待できないが、牽制けんせいとしては役に立つ。何よりミルユリルの視線を、他の二人からそらすことが重要なのだ。その間にネペンテスは位置取りを変え、ヤガタがいる方を背に斧鎗を持ち直す。

「そらっ!!」

 ブオンと風を刃が切るが、ミルユリルも甘くはなく、きっちり避ける。何とか追いついたヤガタは、近くの墓石を壁にして隠れていた。

「察しは良かったが、その程度。お前達がいくら暴れたところで、女王の威光は防ぎようがない! さぁ、『私達イル・メ・トーラ』の血肉となるのです。そっちの方がきっと幸せですよ!」

「誰が好き好んで食われるかってんだよ!」

 笑い声を上げるミルユリルに対し、疲れが現れてきたステンタフが声を荒げる。ネペンテスも懸命に攻撃に出ているが、どれも空振りか、硬質な腕によりいなされていた。
 三人は焦っていた。傷の一つも付けられなければ、この「劇薬」も意味がない。戦いが長引けば、どう足掻あがいても、この化け物の胃袋に収まるだろう。

 ヤガタは賭けに出た。墓石の影から飛び出した彼の事など「知っていた」素振りのミルユリルは、すぐに標的を変えた。

「愚か者。もう少し賢いのかと思っていましたが、残念です」

「ああそうかい! 期待を裏切って悪かったな!」

 幸いなことにミルユリルは「接近戦」だけしか戦えなかった。ヤガタも手に備える鉄爪により「接近戦」が得意であった。だが威力も速さも上回るミルユリルに、一太刀入れる事は無謀である。ここにいる三人で、それが行える者は誰もいなかった。

 だが勝利する為に、必ず傷を負わせる必要はない。

 ヤガタとミルユリルが、一進一退の攻防を続ける。ステンタフとネペンテスは既に体力が底をついていた。黙って見ている二人に、ミルユリルはそれを諦めと捉え、勝利を確信していた。

「可哀そうに! あの二人はお前を生贄にするつもりですよ」

「よく言う、 どうせ誰も逃がすつもりがないだろうによ!」

 力に押されて体がもたついてきたヤガタは、はたから見たら闇雲に右腕を大きく振りかぶった。見逃すはずもないミルユリルは、それを易々やすやすと掴み、ヤガタの体を持ち上げた。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

「最初から分かっていたのに、どうにかしようなどと要らぬ努力をするから。……どこから食べて上げようか?」

 赤い指で優しく胴を撫でる。少しでも爪を立てれば、ヤガタの肉など簡単に裂けるだろう。彼女は残りの二人が逃げ出さないことに気を良くしたのか、随分とゆったり構えていた。

「食われるのなら自分でくれてやる! ほら口開けやがれ!」

 最後のあがきと捉えたミルユリルは、躊躇ちゅうちょなく口を開いた。ヤガタはそこへ迷わず左手を突っ込み――あわよくば鉄爪で貫こうとしたが――口をそらされ腕先を食い千切られた。

「入った!」

 悲鳴もそこそこに、ヤガタは確かに怪物の口内へ自分の左手と共に小瓶が入り、呑み込まれたのを見届けた。ミルユリルはそんな彼の様子を「追い込まれて気が違ってきたのか」と眺め、血肉に舌鼓を打っていた。唯の違和感を覚えながら。
 もう話す事はないと、再度口を開いて食べようとした。が、彼女はヤガタを放してしまった。にわかに苦しみ始めたミルユリルは、何が起きているのかさっぱり理解できていない。

「お嬢さん。……腐り血って知っているかい?」

 腕を失った痛みから大量の汗をかくヤガタの口角は、けれど上がっていた。次第にのたうち回り始めた化け物に対して、同情の心はなかった。

「お、お前。……腐り血を、腐り血を入れたのか!?」

 ミルユリルはその大きな口から、大量の血液と溶けだした内蔵を漏らしている。地面に落ちたそれらは、まるで煮立った湯のように泡を出した。「腐り血」は血流にも乗ったらしく、先ほどまで猛威を振るっていた腕や足が、悪臭を放ちながら腐り落ちていった。

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(投稿:2018.07.16)
(加筆修正:2018.07.16)

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