「さて。そろそろ本題の依頼に入りましょうか」
少し冷めた紅茶を飲み、ナディアは切り出した。
「私はある目的から魔術書を集めています。しかし国内だけでは少ない。そこでレヴェント帝国にある魔術書を探し出し、私宛に卸してほしいのです」
「……魔術書を? いったいどんな目的で?」
「そこは
気になって訊ねるが、ナディアは困った表情で笑って拒む。
何か並々ならぬものを感じるが、追及は後にした方がよさそうだとフョードルは判断した。
「帝国では魔術書はどのような価値がおありですか?」
「それほど価値はないです。魔術師が記した落書き帳のようなものですから」
答えれば、ナディアは口元に手を当てて考え込む。
たかが落書き帳にどれほど悩んでいるのか不思議に思っていると、思考が纏まったのかナディアは顔を上げて姿勢を正す。
「なら、金貨二枚、洗髪剤の基礎となるレシピを前払金として提示します」
金貨二枚というだけでも驚愕ものだというのに、さらに秘蔵のレシピを差し出すと言った。
目を見開いて凝視すると、ナディアは説明する。
「金貨二枚は捜索費の一部です。私が開発した商品のレシピの公開は、これが初めてとなります。レシピの初公開。それも他国の商品。それがどのような価値があるのか、一流の商人である貴方なら分かるはずです」
他国で人気を誇る商品のレシピ。しかも、それは日常に欠かせない商品であり、カルディア帝国が喉から手が出るほど欲している情報。
個人の一財産であるそれを知れば、アナトール王国から輸入しなくても自国で生産できる。さらに自国内でレシピを独占すれば、ルゥビーン商会は
儲け話としては、これ以上にないほど
「とはいえ、これは前払金。捜索期間中に求める以上の魔術書を卸していただければ、報酬に未開発のレシピを付けます。このレシピの原材料は我が国では輸入品ですが、レヴェント帝国では属国から入手できるものです。それを独自で開発すれば、貴方の商会が原点となります。開発費は、前払いで得た資金をもってすれば余裕で足りるはずです」
確かに新商品の開発には莫大な費用が掛かる。だが、今以上の財産が手に入れば、開発に必要な資金にも余裕が持てる。
「……捜索期間と、求める以上の魔術書は……どれほどですか?」
「捜索期間は、短くても半年、最長で一年。魔術書は五十冊以上。半年ごとに集まった魔術書を届けてくだされば、総合数五十冊以上となった時点で、未開発のレシピを提供します。そして半年ごとに届けてくれた際、報酬を半分ずつ分割でお渡しします。一年分ですので、金貨十枚。つまり半年ごとで金貨五枚を差し上げます」
五十冊以上の魔術書を探すのは骨が折れるだろうが、未開発のレシピを考えれば釣り合う。
ただ……
「捜索期間が短すぎます。さすがに一年で五十冊は難しいかと……」
「……では、長くて二年はどうでしょう?」
「それくらいなら……おそらくは。ですが五十冊もあるでしょうか?」
魔術師は迫害の対象。隠遁した彼等が魔術書を書く可能性は五分五分。それを考えると五十冊は高望みだと指摘する。
「なら、最低でも三十冊。半年で三十冊を超えるようであれば、まずは鉱山での作業を楽にする技術を
「鉱山での作業を楽にする技術とは?」
「宝石や魔晶石を鉱山から運び出すには手押し車が主流。道中の振動で落ちて無駄になってしまうことも多い。それを改善する画期的な技術を私が編み出しました。そうすれば貴方の商会が扱う宝飾品の数も増えるはずです」
どれもこれも破格の技術。その情報を得れば、どれほど商会が
「ただし、三十冊を超える場合です。それ以下ならレシピや技術は提供できません」
ナディアが念を押せばフョードルは
「そのご依頼、承らせていただきます」
「ありがとうございます。では、契約書にサインをお願いします」
会頭補佐が両者に四枚の契約書を差し出す。契約内容を読み、間違いがないことを確認してサインと調印し、一枚を互いに差し出す。
こうして契約は
フョードルを見送った後、私は商会の会頭専用の執務室でぐったりした。
相手はレヴェント帝国屈指の商人、ルゥビーン商会の会頭だ。気が抜けない相手だし、隙を見せたら丸め込まれる事態が起きてしまう。だからまずは自分の実績を証明して信用を得た。
この数年でお婆様から学んだ話術のおかげもあり、
達成感はあるが、頭を使って疲れてしまい、甘いものが欲しくなる。
その時、執務机に見覚えのない菓子を載せた皿が置かれた。
「料理長新作のチョコレートのシフォンケーキです。何か物足りないようで、アドバイスが欲しいそうです」
会頭補佐のトレヴァーが紅茶を淹れながら言った。
体を起こして壁際を見ると、料理長が立っていた。
「遠慮はいらない?」
「はい。よろしくお願いします」
緊張感と期待感を持って、料理長が一礼する。
ちょうど甘未を食べたかったから嬉しかったけれど、こういう時までプレッシャーがかかるのはしんどいかも。
苦笑してしまったが受け入れて、紅茶を一口飲んでから食べてみる。
「……うん。美味しいけど、チョコレートが前面に出すぎてて、シフォンケーキのふわふわした食感がしっとりしすぎて重く感じる。……そうね。プレーンの生地とチョコレート味の生地を組み合わせるといいかも。ただし混ぜ合わせるんじゃなくて、さっくり切るように混ぜると、二色を楽しめる形になるかも。名付けるならマーブルシフォンかな?」
手振りを加えて説明すると、料理長は頤に手を当てて考え込む。
「二色を持つケーキ……確かに人気が出そうですね」
「あと、ノーマルの生地をバナナ味の生地に変えると、チョコバナナ味になると思う。ただしこれはシフォンケーキじゃなくて、パウンドケーキにするといいかもしれない。サザーランド伯爵領から取り寄せたバナナはちゃんと熟成している?」
「はい。バナナを使うとは
「まろやかなバナナの味をさらに引き立てると思うの。あとは……バナナに溶かしたチョコレートを纏わせて、その表面に様々な色のチョコレートの粒をかけると、華やかなチョコバナナになるかな。これは屋台で棒に突き刺して売ると
「なるほど……! さっそく作って参ります!」
「期待してるね」
ニコリと笑顔を見せれば、料理長は強く頷いて執務室から出て行った。
「さすがナディア様。フェリス領だけではなく、他の領地の発展も視野に置くとは」
「私達の領ばかり栄えていたら、他の領地や商会が悲鳴を上げるじゃない。いいものを出すのはいいけど、出しすぎると不満を買ってしまうし。そこの匙加減も考えなくちゃ」
紅茶を飲みながら言うと、トレヴァーは苦笑した。
「ナディア様は神童でいらっしゃいますね」
「神童って……大袈裟ね」
「その匙加減を九歳で考えられるなんて聞いたことがありませんよ」
……これでも転生者だからね。精神年齢はおばさんだもん。
「経験を積んだし、授業のおかげもある。バナナの存在も授業で知ったのだから」
「熱帯地域のサザーランド領で栽培できるなら、フェリス領でも作れそうですが」
「それはそうだけど、苗を貰えるか分からないし、何より農家の土地面積も考えないと」
そもそも苗を貰っても上手く育つか分からない。
温室技術はこの一年で磨いたおかげで、降水量の多い地域の農家の被害は減った。それを利用するのも手だけど、土地を管理できるかどうか不明。
問題は山積みだから、今はまだ着手する必要はないと断じる。
シフォンケーキを食べきって紅茶を飲み干すと、トレヴァーが食器を下げた。
「ところで、契約の交渉にあそこまでレシピを提供してよろしかったでしょうか?」
契約の交渉とは、フョードルに依頼を出したこと。
注ぎ足された紅茶の香りでリラックスして、そっと目を閉じる。
「いいの。どうせ私の商会だけでは
「では、半年ごとの報酬にレシピを加えたのは?」
「これも同じ理由だけどね。魔術書って希少すぎて見つけにくい。半年で三十冊も集まるのかも分からない。半年で三十冊が手に入るなら安いものだけど、三十冊以下なら情報は提供しなくてもいい。つまり、向こうは欲しい情報を得るために、魔術書の数を
最初に過大な要求を出して、次に受け入れやすい内容を出すことで本命の要求を受け入れさせる心理的な交渉術――『ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック』だ。
「それに……同盟とか協定を結ぶのに必要なものは何だと思う?」
「……すみません。分かりません」
しばらく考えたトレヴァーは答えを導き出せず、眉を下げて降参する。
まぁ、私も前世で好んで読んでいた書物のおかげで知ったことだし、無理もない。
「相手のために損を支払って、それが何倍もの利益となって返ってくることで、初めて強い信頼を得られる。つまり『先払い』だよ。今回私は損を支払ったけれど、たいして痛い損じゃない。むしろ商会の問題が軽くなる損だった。その損で利益を得たルゥビーン商会は、フィリア商会を対等もしくは上の存在として見てくれる。どのみち私達に利があるばかりね」
「……そこまで考えていらっしゃったのですか……?」
「んーん、いま気付いた。今回は無意識に上手くいったけど……ちゃんとそれを考えられるようにならないと。今後の課題ね」
苦笑いを浮かべて答えれば、トレヴァーは戦慄した表情を苦笑に緩めた。
「――さて。仕事が終わったら、フィリア商会の創立記念日について考えないと」
もうすぐ春の社交界が始まる。その頃がフィリア商会の創立日。
一年が経った今、何かしら祝いたくなるのは前世の影響だろうか。
「創立記念日……今まで考えたことのなかった行事ですね」
「まあね。同僚と交流を深める宴会もいいけど、休日にしたい場合は休日にする。本当は旅行も考えていたけど、資金はともかくめぼしい場所が近くにないし。どこかに観光できる都市とか温泉街とかあったら、
「慰労……でしたら、給金とは別の祝い金を配るのはどうでしょう? そうすれば個人で自由に遊びに行けますし、同時に一日だけですが休めます」
「特別感が無いのは残念だけど……その案も取り入れて、アンケートの結果も吟味して決めましょう。トレヴァーには特に無理させることが多かったから、二、三日の休暇をとってもいいよ」
「いえ、ナディア様の補佐を放棄するわけには……」
「家族と一緒に過ごしたい日もあるでしょう。まぁでも、そこはトレヴァーの好きにすればいいから。好きなことができないなんて苦痛でしかないからね」
遠慮するトレヴァーに呆れて言えば、彼は丸くした目を切なげに細めた。
「……でしたら、ナディア様もソフィア様とお過ごしになられるとよろしいかと」
どこか悲しげなトレヴァーの声音に首を傾げる。
トレヴァーは力無く笑い、一礼すると執務室から出て行った。
「……あ。あぁ、そういうこと……」
家族と一緒に過ごしたい。それは誰だって思うこと。
特に子供は、親と一緒にいたい、遊びたいという気持ちを持つのが当然だ。
でも、私の両親と妹は酷いものだ。弟はまだ幼いから分からないけれど、両親と妹だけは家族として見られない。
彼等のような人間が肉親だなんて、こっちが願い下げ。だから無関心を貫く。
私はそれで構わない。でも、トレヴァーにとってそうではないらしい。
「私にはみんながいるなら、それでいいんだけど」
私を愛してくれる人達がいる。だから前世からの憧れだった望みを忘れられる。
――私を愛してくれる、私が愛せる家族とともに生きたい。
願いは叶わなかったけれど、今が幸せだから構わない。
「よしっ、頑張りますか」
万年筆を取って、私と皆の幸福を実行するために、商会の仕事を全うした。