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咳き込んで、自分の肩が大きく上下し、脇腹が痛む。「腹を掻き回される」と言うと大げさかもしれないが、それだけの事はされたと思う。しかし絶対的「死」が目の前にあったにもかかわらず、こうして生き長らえたのは運が良かった。
足元に落ちていた青い布を拾い上げる。さっきのどちらかが落として行ったのだろう。確か前の連中も、この発色の良い青い布を身に着けていた。恐らくこれが「証布」で、同士を判別する為だろう。彼らには悪いが「後で使えそうだ」と悪知恵を働かせて顔が緩んでしまう。私は存外、酷く醜い性格なのかもしれない。
すでに見えなくなったあの異形狩りの一派は、尋常でない強さだった。彼等の行動を覚える以前に、自分の腕と足が綺麗に無くなった時は流石に死を覚悟した。だがそこからが一番きつかった訳だ。あれで意識が飛ばなかった自分の精神力が憎い。
そんな諦めの中で、どこか希望を探している時に加勢は入った。現在、当の本人は落ち着かない様子で手をさ迷わせている。私は「平気だ」と「感謝」の意味を込めて頭を一つ下げた。間をおいて蝶々の異形も同じ動作をし、控えめな拍手を返してきた。この異形の手は小さいため、少し愛らしく見える。
男か女か、今一つはっきりしない外見の相手は、手招きをしてついて来るように訴える。安全な場所を知っているのだろうか。治ってはいるが心理的に万全とは言えない体に鞭打って、とりあえず後を追う。ここよりかはマシだろう。
戦っていた広場の隅まで来ると、異形はある個所へ指を指した。薄暗い為に全く気付かなかったが、これは通路だ。中は人一人通るのがやっとで、壁の崩れも目立っている。足元はドブ川のように汚物がひしめいていた。臭いも強烈さを増している。地下街はもともと悪臭が気になっていたが、ここはさらに上を行っていた。
ここを通るのか、と自分でも分かるくらい引きつった顔をしていれば、蝶々の異形は全く意に介さずにぐんぐん進む。深さは脛辺りまであり、見ているだけで既にない傷口が膿みそうだ。それもイル・メ・トーラなら普段と変わらず治り、平気なのだろう。私は諦めて後を追った。
天井が一部崩壊した大部屋に出る。地下街では珍しい月の明るさに、顔をしかめた。慣れてきたところでよく見れば、ここだけ花が一面に咲き誇っている。良い香りだ。穏やかな明かりも相まって、さっきまでの緊張感と不快感、体のこわばりも何処へやら行ったらしい。
蝶々の異形はこれを見せたかったのだろうか。こちらを見据えて立ち止まったまま、少しも動かない。
「信じて付いて来てくれてありがとう。体は大丈夫そうだけど、まだ緊張しているんじゃない? ここは安全だから、落ち着くまでゆっくりしていくといいよ」
「でも、くれぐれも気を付けて。分かっているとは思うけど皆が皆『いい人』って訳じゃないから。それじゃあね」
ようやく声を聴いたと思ったら、すぐに姿が立ち消えてしまった。何か手に持っていた素振りだったが、それを使ったのだろうか。彼女(ということにしよう)は現状では「味方」のようだ。根っからの悪人なら、わざわざ忠告などしないだろう。
膝をついて花を一つ手折る。それだけでも果物の様な芳醇な香りが、肺一杯に入り込んでいる気がする。これはきっと、蜜も殊の外旨いのだろう。さっきから沢山の蝶々も飛び回っている。
と、突然体が風にあおられた。どうしたことか。ここは風が吹き込むような場所ではないはずだが。慌てて顔を上げると、巨大な黄色い蝶々が降り立っていた。
ああ、こんなところにまで違う者がいる。私はようやく逃げ場はおろか、隠れる所すらない事を思い知った。
影の後ろに月の目が見えた気がする。
違う者、ノフナフは非常に穏やかな性格だった。固まっていた私へ、蝶々特有の管が伸びる。さながら自分が小さな虫になった気分だ。殺されるのか? 一瞬思ったが、管は手元の花へ降りる。見ていると、管からさらに細長い管が出てきた。持ち主が巨体とは思えないほど繊細な動作で花の蜜をすする。しかしそれも、ものの数秒で終り物足りなかったのか管で私の顔(正確には鉄面だが)を叩く。
いや、お前の足元にあるだろう。私が取る必要があるのか? 困惑して行動を起こさない私に飽いたのか、するすると管が縮んでいって、口先と思われる部位に入っていった。蝶々とは言ったが、細長い頭に、小さな足が複数ある胴体。巨大な羽は4枚あり、虫で例えるなら腹のようなところにもバッタの足がある。これが蛾の地味な色合いなら、気色悪さが勝っただろう。鮮やかな黄色は、揚羽蝶を思わせる美しさだ。違う者を信仰したくなるのも頷ける。
特に何かするわけでもなく、羽を優雅に開いては閉じを繰り返す。先ほど顔を叩かれたのは何だったのか。殺される心配も必要なさそうなので、試しに近づいて綿密な毛の腹に触れてみる。巨大な足に一応用心を払おうとしていたが、羽毛のような柔らかさに意識が一気にそれる。素手で触れたらどうだろうか? 手袋を外して触る。あまりの心地よさに顔を押し付けた。……鉄面をつけたままだった。
「知るは即ち力であり、また享受するならばその本質を得るだろう」
声、とも言い難い声が頭に響いた。
「黒い霧」の時と同じように、激しい頭痛に襲われる。悶える程なのは違わなかったが意識は明瞭で、頭の中にすっと、文字が見えた。言葉を介さずに意味が理解できる。これはノフナフの「紋章」だ!
理解した途端、頭痛の事などどうでもよくなった。今はとにかくこの違う者に礼を尽くさねば、と片膝をついて頭を下げる。そして手近にある花を持てるだけむしり取り、目の前の「主」に差し出すのだ。
それに対してノフナフは特に思わなかった。ただ「これは妙妙たる眷属が生まれたものだ」と関心を示した程度で、蜜をすすっていたのだった。
―――――
「『工業区』へ行った方がいいかもしれないね。こういう手合いは彼らが専門だよ」
「奇妙な器具」を持ち上げながら、地下街の商人コンスタンティンは答える。
ようやく商人の元へたどり着いたが、彼は「遅かったね、金は要らないのかと思ったよ」と言い、私の苦労が危うく消え失せるところだった。
家の中はそれはそれは大量の商品らしき物品が、所狭しと置かれている。客人を迎え入れるための空きはほとんどなく、私は戸を開け二、三歩で進むのを諦めた。
「人の要望を聞いていたら、物が増えてしまってね。俺を頼りにしているし、断るにもちょっとねぇ……」
「ああそうそう。お金以外に何か欲しい物があったら、そこら辺から適当に選んでいってよ」
背を向けながら、私の辺りを指でぐるぐる示す。特に「それは駄目だ」もないようなので、見た目で高そうな物を選んだ。取った際、積み上げられた商品が少し崩れたが、黙っておこう。
「器具」に関しては、流石に彼も何かは分からなかったが、心当たりはあるようだ。「あったあった」と奥から引っ張り出してきたのは、ナギャダの地図か?
「工業区の職人には、専属で仕事を請け負う人が、数は少ないけれど存在するんだ。これはきっと教会や病院の器具だと思うし、……もしかしたら植研会、いやそれはないか」
「まあ兎に角『工業区』だよ。宿場街からは……」
辛うじて見える机の上に地図を広げる。街の地図があるのは大変ありがたい。ナギャダの街は、あまりにも作りが複雑すぎるのだ。
「ここの門から入れるよ。大通りから言えば北西だね。でもこのままだとまず行けないだろうから、はいこれ」
と、さり気に手渡されたのは鍵と通行証、先の地図である。
「へへへ、いいだろ? 工業区に関しては、商人やっているからちゃんと鍵を頂戴しているんだ。それがあれば怪しまれずに宿場街から行き来できるよ」
彼はそう言うと右手の親指、人差し指、中指を繰り返し着けたり離したりする。初めて見る動作だが、どういう意味だ?
「ああこれ? ナギャダじゃ『上手くやれよ』とか『幸運を祈る』とかで使うんだ」
古い伝承だよ、と続ける。少し間を置いて、今度は神妙な様子で話してきた。
「気を付けてね。地下街と宿場街はまだ安全な方だけど、他はどうなっているか、俺も知らないからさ」
彼の言葉に少し引っ掛かりを覚える。コンスタンティンは工業区と頻繁に取引をしていると聞いた。なぜ「どうなっているか知らない」のだろう。
「ミルユリル教会だと思うけど、最近酷い素行で、おっかなくて通えたもんじゃないんだ。警官も、全く姿が見えないしね」
「……俺みたいな凡人には、そこまでして行く勇気はないよ」
彼はそう答えると、背を向ける。そして小声で、呟くように言葉を吐き出す。
「本当、皆どうかしちまっているんだ」
自分に向けられた意味のような気がして、身体が一気に冷たさを増した。私はただ黙って立っていた。
私はまだ「まとも」だ。懐にある金の重みが「重要なもの」だと理解できているし、住人達のように命を軽んじている事はない。それらが理解できなくなる時など、きっと訪れない。そう信じたい。
【 日陰花 】
地下街などの日陰で湿った場所に咲く花。別名「汚水花」。花弁の色は薄黄色で、芳醇な香りをさせる。
摘み取っても一週間は萎れもしないと言われている。また別名の通り、糞尿等の汚物がある場所で目にすることが多い。
人は己の汚物を穢れと罵る。その穢れに咲く花は、無垢にも優しく寄り添っている。
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(投稿:2018.04.26)
(加筆修正:2020.04.30)