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 酷い飢えを感じた。地下街に来た時より一層強い飢えだ。正しい意味の空腹ではないと思う。故郷にいた頃の、食事にありつけなかった時期と比べても異常な感覚だ。(「血」はないか?「血」が欲しい!)

 意識が混濁してきている。正常な判断が出来そうもない。何か、何か口に入るモノを。とにかくこの「飢え」をしのげるモノを――。
 足元を鼠が一匹走り抜けていった。あっ、と思って手を伸ばしたが、ソイツは壁の小さな穴に入っていく。頭の中では鹿を解体した時の匂いが充満していた。生温かく、湿った血の香り。それは妙に懐かしく、同時に「ネズミを逃がしてはならない」と強く思わせた。
 汚れるのも構わず、体をかがめてて穴の中を覗き込む。小さな瞳が私を覗き返していた。畜生め、腕が入れば捕まえられる位置なのに! 無理やりねじ込んだ赤い指先は、石を引っ掻く嫌な音を立てるだけだった。真っ黒い鼠の目が、憎いと感じる。
 こいつは諦めよう。探せば他にいるかもしれない。あの匂いが懐かしい、恋しい。血が食いたい、血が食いたい。食えるものなら何でもいい。できれば肉。温かい肉がいい!

 涎が伝うのも構わず、目を見開いて探していた。直感的に止まった視線の先で、うごめく姿を捉える。茶と緑色の服装の「人間」が、麻袋を触っている。こちらは奥まった明かりのない路地で、向こうは全く気づく様子はない。
 足が勝手に動いた。音を立てないよう静かに近寄らなくてはいけない。今すぐにでも飛びつきたい衝動があったが、自分でも驚くほど非常にゆっくりした動作で詰め寄っていた。――影だ。あれは私の道になる。何故か確信し、何の違和感もなく体が消えた・・・・・・・・・・・・・。そして一瞬で人間の背後に陣取った。服ずれの音がはっきり聞こえる距離、相手も私に気づいた。振り返りかけていた。
 どっちにしろ、もう手遅れだ。
 
 飢えが満たされて気づいた時、相手の体ははらわたがすっかり無くなっていた。右手を口にやったまま、私は固まる。その人の首の肉は千切れ、頭や手足が力なく伸びている。自分の体はいつの間にか異形に化けており、素直に驚いた。そうしているうちに食い散らかされた体は霧になって、私の中へ溶けていく。口の中に残っていた血や肉片が「お前がやったんだぞ。お前が殺して食べたんだぞ!」と、嫌な主張を繰り返していた。

 体が震え始める。恐ろしいことをした、恐ろしいことをしたのだ私は! 初めて化けた時は「異形の三人組」から生き残るのに必死だった。「飢え」も大して気にならなかった。今回は違う。「飢えを満たそうとした」そして、
 人を食い殺した――。

 瞬間人間の姿に戻り、私は嘔吐おうとした。鉄面を除けるのは間に合わず、少しかけてしまった。あまりのせり上がりの強さに、地面へうずくまる。口から吐き出されるのは何故か胃液ばかりだったが、全部空にしたかった。

 そんな中でも、頭の中では原因を思い出そうとしている。「飢え、空腹」と感じているが、これは本当にその衝動なのか。別の衝動を「飢え」だと思い込んでいるだけではないのか。

「殺しじゃない。これは『力』をつけるために必要な通過儀礼さ」

 そういえば三人組の異形の誰かが言っていた。「殺し」はさほど重要ではなく、「力」をつけることが彼らの目的だった。
 私が最初、変身できたのは両腕と、頭が一瞬だけだった。だがさっきはどうだ? 両手両足、それと頭。空腹感が治まるまで、異形の姿だったはずだ。これまでにすでに四人は食っている・・・・・・・・

「予の為に、力をつけろ」

 黒い霧が言っていた「力をつける」とはこれのことか? 「イル・メ・トーラの人間」を「食え」ということなのか? でなければ話が合わない。力は確かに、同族を食ったことで付いて来ているのだろう。もし、この「空腹とおぼしき現象」が生まれつきならもっと前、それこそ故郷の村で起きていてもおかしくないはずだ。当時を思い返しても、これ程まで無差別的に「飢える」事はなかった。
 ここに来て、この街に来て、こうなったのだとしたら? 私ははめられたのか、誘導されているのか?
 頭が震え、何かが削げ落ちたような感覚。それ以上に考えることが出来なくなっていた。

 音が聞こえて、身を固くする。やや遠いそれが、複数人の足音だと気づくのは早かった。吐き気が治まってきていて助かった。私は近くの開いていたボロ屋に転がり込む。戦う気力がない状態で、鉢合わせずに済んだのは運がいい。騒がしく走る音は、敵ではないと断言できないだろう。
 しかし、この家の中は気味の悪い。得体の知れない器具が、そこかしこに置かれている。血の染み付いた古い床と、薬剤の独特な臭い。ここは病院か何かだろうか? わずかに混じる埃臭さは、人のいない時間を感じさせた。
 外で足音が止まる。体に力が入った。

「……いないな」

「奴め、勘が良いらしい」

「どうする? 人手が足りない。あまり時間は割けないぞ」

「まだ新米だ、泳がせておけばいい。みつぎ物にするか、従属にするかはあの人が判断するだろう」

 聞き取りにくかったが、内容は分かった。どうやら追手がいるらしい。追われる理由は何となく見当はつく。むしろ心当たりが在り過ぎる。しかしそれが異形狩りの一派か他の連中かは、さっきの話だけでは判断できない。
 乱雑に板が打ち付けられていた窓の隙間から外を覗う。徐々に遠ざかる影を見て、緊張の糸が緩んでいった。その影が遠くで形を無くした後は、どこからか落ちる雫の音だけが響いている。

 ふうと息を吐いて脱力した。壁に背を預けて沈む様に座る。さて、ここからどうしたものか。考える頭もないので、吐瀉としゃ物で汚れた鉄面を拭く。が、それすらも億劫おっくうだった。
 何とはなしに家の中を見渡す。怠惰たいだ感が残る心と体では、周囲を警戒する集中力はない。口の中には胃酸の酸っぱさが残り、それだけで気分を害していた。これ以上奥に進む気力は残っていなかった。

 部屋の隅や古びた家具には、千切れかけた蜘蛛の巣。医者が使ったであろう医療用の錆びた鋏。濁った色の使いかけの薬瓶と、脱脂綿や黄ばんだ包帯が入る用済みの棚。そして階段が、見づらいが奥にあった。
 立ち上がって近づく。ランタンを掲げると、上は結構な高さがあるようで、暗い。足を板へ慎重に乗せ、体重をかける。途端きしんだが定期的に(それでもかなりの期間は開いているはずだ)手入れはされていたのだろう。心配していた事態にはならず、杞憂きゆうに終わる。埃をかぶった中の所々に真新しい木目が、薄暗いランタンの明かりを返して浮き出て見えた。

 先には二階がある訳ではなく、踊り場に続いてさらに上へ登って行った。思っていた以上に高い。登りきると殺風景な部屋に出る。あまり使われた様子のない簡素な机と椅子が一つずつ置かれているだけで、居住していた雰囲気はない。まるで階段を通す為だけに用意された部屋のようだ。

 床が光っている。……いや、くすんだ窓から日の光が差し込んでいた。どうやら地上に出たらしい。部屋を特に調べる意義も感じないので玄関に向かい、内鍵を開け扉を開いた。
 見覚えのある風景が広がっている。宿場街の人通りが少ない東側。外へ出て、建物の外観を確認する。やはりそうだ。「娼婦の館」よりさらに奥まった所で見たものだ。

 偶然にも良い結果になった。空は赤みが広がっていて、日暮れも近い。商人に会いに行くこと自体は急ぎの用事ではないし、無理をすることもない。知っている場所に来たせいか、気が抜けて体が重さを増す。足に鉛が付けられたみたいだ。
 間抜けにも「ぐう」と響いた音で私は「本来の空腹」を思い出す。生きている感覚を妙に実感するのは、悪い事じゃない。そうだろう、そのはずだ。
 真に紛い物でない「私の」腹の虫が騒ぐのを抑えつつ、虚脱きょだつを引きずって静かに帰路に着いた。






【 捕食 】
 イル・メ・トーラの「異形」が行うわざの一つ。成功すると得る「赤い霧」の量が増える。

 捕食は生物にとっての糧であり、礎である。それを否定する事は生物として、有り得ない。

 何をするにも犠牲は付き物だ。有形無形に意味はなく、常々価値は個人により変わるものである。

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(投稿:2018.04.26)
(加筆修正:2020.04.23)

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