約束


ぷーーんと不快な羽音を耳が拾う。
反射的に何処にいるかわからない敵を手を振り回して追い払った。

だが、時すでに遅し。

「……痒い、、」
今年はまだ痒み止めの塗り薬は調剤していなかった。虫除けの香は確か昨年の余った物が荷物の中に入っていたような気がする。
が、しかし、とにかく痒い。
耐えきれずに肌をがりがりと掻いてしまっている。

『桜!何をして居る!
 そんな事をしては傷ができてしまうぞ。』
何処からともなく現れた可楽は肌に爪を立てる手を掴むと、引っ掻かれた腕を見て『なんて事を』と少々大袈裟に思える反応をした。
「……かにさされてしまったんですもの…」
『かに?面白い事を言いよるのぅ。
 桜よ。流石に儂でも、蟹は知って居るぞ。
 沢で横歩きしか出来ぬ、足の多い奴じゃろ?
 奴等がここまで上がって来た事は無い上、
 アレが人を刺すなど聞いたことがないぞ!』

「……」
桜は自信満々に話す可楽を凝視したまま、再び肌を掻いた。
『じゃから、掻いてはならぬ』
「、、だって痒いんですもの…」
『桜の肌が痒い事と、蟹の話が繋がっておらぬ』
「あのですね、蟹では無く、蚊です。先程から
 不快な羽音がしているではありませんか」
『…羽音?何も聞こえんぞ?』
「えーー」

その直後に桜はハッとする。
確か蚊の羽音というのは周波数というものの関係で歳を重ねるとだんだん聞こえにくくなる物らしい。可楽は鬼で長い年月を生きている。
ならばこれを聞き取れなくても仕方がないのかも知れない。

ーーうん。見た目若いけどお爺ちゃん。
『な、なんじゃその、憐れんだような生暖かい目は…』
「……なんでもありませんよー」
『ま、まぁ良い。で、その蚊とやらは桜に一体
 何をしよったんじゃ?』

「何って、、血を吸われたんですよ」
『、、何ぃ!!!儂とて我慢して居るというに、
 蚊という奴は桜の血を吸っていったとな?!!

 ・・・・・・・・・

 ……儂も蚊になりたい、、』

後ろの言葉は呟くような声だった為、桜には聞こえていなかった。桜は灯りをつけると蚊を撃退すべく虫除けの香を探す。

「ふと思ったのですが、蚊が鬼の血を吸ったらどうなる
 のでしょうね?
 頸を切らなきゃ死なない蚊は聞いたことがないので…」
ぷーんと桜の目の前を飛んでいった蚊が可楽の腕に止まった。

桜は知的欲求と、可楽に痒い思いをさせる罪悪感の狭間で揺れる。
『桜、、こいつか?蚊というのは、、
 この羽虫が桜の血を吸ったというのか…』
良くみると後ろの腹の方が赤く膨らんでいるので、きっとこの蚊で間違いないのだろう。
桜は蚊の様子を眺めながら「きっとそうだと思います」と返事をした。
蚊の先端の方から細い糸のようなものが出てきたのが見えた。それがだんだんと可楽の腕に近づいて行く。


桜は息を飲んだ。虫は嫌いではあるが、蚊が鬼の血を吸うとどうなるのか……今、その疑問がここで解明されるのである。


バチンッ!!

「うわっ!!」
突然視界に入って来た肌色の塊は腕に止まっていた蚊の上に振り下ろされ、桜の目の前で肌を叩く大きな音がした。

『桜、仇は取ってやった。』
眼前でドヤ顔を見せる可楽に、礼を言えば良いのか、驚かされた抗議をすれば良いのか、犠牲を出そうとした事を反省すれば良いのか桜の頭の中では考えがぐるぐると回りだす。
一方、可楽は蚊を潰した掌と腕を交互にじっと見つめていた。
蚊と、赤い色。腕を顔に近づけてクンクンとにおいをかぐ。

「ちょっ!!!ちょっと待ってください可楽さん」
 


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