冀求2
ーー桜はまだ戻ってないのか…
もう、陽が暮れたというのに、桜の姿がなかった。桜がいる事が当たり前となった今、その姿が見えないというのは凄く胸がざわざわする。
この胸のざわざわに積怒は名前をつける事はできない。
腹立たしいではない。苛々するでもない。
それでも、確かな事が一つだけあった。
桜をこの目に映したい
独り占めをしたいと贅沢な事は言わない。ただ姿を見たい。すれ違ってばかりで声もまともに聞けていない。だから、ただ会いたい。
ーー随分と女々しくなってしまったものじゃ…
無意識に握り直した錫杖がジャラと、音を立てていた。
『…………っ』
音が、、声が聞こえた気がした。
それを辿って廊下を進み、大きな窓にたどり着く。
そこから見えるのはあの木。
言い合いになったり、喧嘩をしてしまったり、良い思い出とは少し違うかもしれない。それでも、積怒にとってはどれも桜と過ごした大切な記憶になっていた。
ーー桜は、、居ない、、ならば、あの声は、、
心の奥が軋む。木の裏側にいるのかもしれないと、ありえない事と思いながらも居てほしいという願いで、窓から外へと飛び出した。
一歩一歩踏みしめて進む。どうしても、器用になれない自分に苛々する。
裏側に回ってみても、やはりその場に桜はいなかった。心のざわざわは大きくなっていた。
ーー…触れたい。
ゆるく左右へ波打ちながら降りていく髪も
腕の中に収まる小さな体も、細く長い手指も、、
声も、全部、全部。
木の幹に手をついて、その手に額を当てる。
思い浮かぶのは桜の事ばかり、記憶を辿りながら頭の中では桜の歌声が聞こえていた。
消えてしまいそうな、小さな、、それでも凛と響くあの声が。
ーーーーーー
ーー遅くなってしまいました。
帰り道に怪我をした人を見つけてしまい、手当てをして、身の安全を確保できるまでと思っていたところ、この通り、帰りが遅くなってしまったのだった。
屋敷の中に入ろうとして、小さくジャラ…っと金属音が耳に届く。
「…積怒さん?」
ーー外にいるのでしょうか?
桜は中に入る事をやめて、庭を進む。
ーーこの先は…
木に額を預けている積怒の姿が桜の目に映り、その姿が泣いているように感じてしまった。
声を掛けていいものか戸惑って、様子を伺っていると微かに聞こえる吐息に、拍子が付いている事に気づいた。
ーー…うた?……。
ーーーーーー
積怒の記憶の中で、桜は木の根元に座り込んで歌を歌っていた。初めは聞いた事がない旋律であったが、すーっと耳に馴染んだ桜の声。
ーーどうして逃げない。
どうして泣かない。
どうして笑むのだ…
何度も記憶を辿った。何度も記憶の中で聞いた歌声。唇も音を辿る。声は出さない。桜の音を聴いていたいのだから。
ふと、記憶の音が大きくなったような気がした。
ーー違う、、記憶ではない。
今、耳に届いている…
ゆっくりと額を上げて音を見た。
隣では桜が歌っていた。「ラララ」と。
『・・・・・・』
驚きのあまり声が出なかった。
体も動かず、目も離せなかった。
一体どうしてしまったというのだろう。
触れたいと思ったはずなのに、時が自分だけ止まってしまったかのようだった。
「ーーーーーーラララ。」
歌が止まると、桜はゆっくりと積怒を向いた。今まで会うことはなかった視線が巡り逢う。積怒は、いつも笑いかけてイライラを鎮めてくれるように、桜は微笑むと思っていた。しかし、その顔は思いの外泣き出しそうに歪む。
ーー何故、体が動かない…
触れたいのに、抱きしめたいのに、口付けたいのに…
桜の顔がかなしみに染まっているのに…
ーー何故…。
『腹立たしいのぅ…』
絞り出せたのはたったそれだけ。本当はそんな事を言いたいわけではないのに。
桜の体が傾いたように見えた。
しかし、体の動かない今の自分には、支えてやる事も、抱き止めてやる事も出来ない。なんと無力な事だろう。
ーー桜…。
「、、、、、」
積怒は再び驚きに目を見開く。傾いたと思った桜の体は、積怒を抱きしめていたのだった。顔も埋(うず)めているため、桜の表情は見えず、どうしたらいいの分からず固まってしまう。
抱きしめる事はあった。しかし抱きしめられた事はなかった。僅かに震えている桜の体に、先ほど見えた悲しそうな顔が思い出されて、木に触れていた手が離れた。頭に手が触れるか…と、その時点で桜が上を向いた。
涙を湛えたその顔に、可楽では無いが綺麗と思ってしまった。
「泣かないでください」
『・・・・・・
泣いて居るのは桜じゃろうが』
「っ!はっ!・・・あ、、あれ?
だって、、だって、、
先日からずっと積怒さん悲しそうで、
話をしようとしてもすれ違ってしまって、、」
ーーもう、どうでもいい。
桜が儂の事を考えてくれて居た。
もう体は動く。ならば何も迷う事はない。
『心配ない。儂が泣かぬ分、桜が泣いた。
もうそれで十分事足りたわ』
頭を撫で、髪をすいて、頬で止まった手は涙を拭う。反射的に目を瞑った表情が可愛らしくて、フッと息が溢れた。それが少しくすぐったい気がしながら背に手を回す。
なんとなく表情を見られたくなくて額を肩に乗せたのは柄ではなかったかもしれない。それでも、いい。
望んだ以上のことが起きたのだ。
歌を聞けて、話が出来て、触れて、、
むしろ触れられて…
いっそこのまま、鬼狩りの殲滅だとか、青い彼岸花だとか、人間と鬼だとか、そんな事を何も考えずに、ただ共に生きて行けたらいいのに、、
そんなことが思えて仕方ない。
桜が泣かなくていいように守り続けるし、泣かせてしまわないように心を砕く。
ーーいや、少し違うかもしれない。
足りない儂らが心を育んでいくのやもしれん。
桜がいればそれがきっと出来る。
上弦という地位が欲しい輩が居るのならくれてやってもいい。
桜がいるならもう何も要らない。
『桜。儂は桜が欲しい』
「…何を言っているのですか…
……私は、、四鬼さん達の、、
積怒さんのものなのでしょう?」
桜の腕の力が少しだけ強くなった。
不安なのだろうか?と過ぎる。
無理もない話だ。人と鬼なのだから。
でも、そんな事は関係ない。
全て拭い去ってやればいいだけの事なのだから。
『ああ。そうじゃな。』
桜の頬に手を添えて口付けを落とした。
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