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『今宵の鼠はタチが悪い。
どういう訳か、僕の書庫が崩れ落ちた
君、一体何をしたの?』
下弦の鬼は、開いていた本から顔を上げ鬼の子を睨みつけた。鬼の足元に手首から先のない腕が一本落ちている。肘下に包帯の巻かれたそれは鬼の子の腕であったもの。
『あっれぇ?その腕どうしたの?
僕がもらった筈なのに。
ふ、ふーん。
どちらがその子の食料になったんだろうねぇ。
鬼狩りが、聞いて呆れる。』
匡近は実弥の視線を感じていた。でも、今はそんな事はどうでもいい。鬼の子に血を飲ませた事を後悔していないし、間違っていたとも思わない。何より鬼の子の腕を切り落とした犯人が目の前にいて、そして、あの鬼は子供達の命を弄んでいる。
「実弥。消えてないって事は今度こそ後ろの本は子供達だ。」
「俺じゃなく、容赦なく本棚を破壊するアイツに言いやがれ」
『鬼の女、どうしてくれる?
書庫とつながらないから駒が出せないじゃないか!!!』
弐ノ型 爪々・科斗風
参ノ型 晴嵐風樹
ジャア。シカタナイ
下弦の鬼の口元が弓状にしなった。
『僕の事を守るんだ』
その声と共に現れたのは本に囚われた少女。目の光を失い、完全に操られている。
匡近と実弥は目を見開く、少女もある意味では本の登場人物という訳だ。鬼に攻撃するべく振るった斬撃が勢い付いて少女へと迫って行く。
ーーーーーー
古い社なだけあって、積もり積もった埃や塵が舞い上がり視界が悪くなっていた。
『鬼狩りが子供を殺す。これは傑作だ!!』
下弦の鬼が笑う。
高々と上がるその声は不快に社の中に響き渡る。
実弥と匡近は信じられず視線が彷徨う。本当に子供の命を奪ってしまったのだろうか、早く視界が晴れてくれと思う反面、それを拒む気持ちも湧いてくる。
二人の気持ちを他所にゆっくりと視界が露わになっていく。そこに子供の血塗れた姿は
無かった。
「匡近っ!!さねっ!!子供は無事です!!」
鬼の子の声が絶望の影に引き込まれ、離れていきそうな二人の意識を掴み戻す。彼女が、斬撃が届く前に少女を抱き上げ安全な場所まで移動していたのだ。少女はジタバタと手足を動かし、向かい合うかたちで抱かれた鬼の子の腕から抜け出ようとしている。
ーーここで離してしまったら、
またあの鬼に良いように操られてしまう。
少女を爪で傷つけてしまわないよう注意を払いながらぎゅっと抱きしめ続けていた。
「だから!!あの鬼を早くっ!!!」
実弥が先に視線を外し、下弦の鬼へ向かって走り出す。匡近が実弥の後を追い視線を外そうとしたその時、少女の手元で何かがきらりと光を反射した。
瞬時に足を止めた匡近。
その目に映ったのは、少女が握りしめた小包丁が鬼の子の背中に刺さる光景だった。
「っ!!」
喉の奥で風が鳴る。匡近には彼女に呼び掛ける名前を持ち合わせてはいない。
実弥の後ではなく、鬼の子の方に向かって動き出そうとした。
「私はいいから!!
鬼の頸を落としに行ってっ!!!
さねの方に行きなさいっ!!!」
鬼の子の叫びにも似た声。少女の小包丁を握る手が再び振り上げられる。それでも、鬼の子は少女を離すまいと抱きしめ続けていた。
本当は鬼の子の元へ駆け寄りたい気持ちを抑えて歯痒さは刀を握る力に変え実弥の後を追う。鬼の頸を落とせば、少女の意識は戻る筈なのだ。それが一番誰にとっても最善だと言い聞かせて。
『駒が、駒、駒、駒、僕の駒ぁ!』
下弦の鬼は思い通りに動かない現状に取り乱し、自身の背後にある棚の本を見境なくぶち撒けていく。刀を振る実弥に向かい本を投げつける。
その姿からは弦付きの鬼である事を信じるものなど居るのかと疑問すら湧きそうになる。
『そうだ、、盾になりさえすれば良いんだ、、』
「お前何を言ってやがる?!」
散らばる本がぐにゃぐにゃと形を変え、次第に人の形へと変わっていく。下弦の鬼は、まだ変形途中の本を掴み上げると口元へと運び鋭い牙で噛み切った。すぐに子供の姿を成し血の赤が染めていく。
本に囚われていた子供が解放されたのだ。
一気に事態は最悪の方向へと傾く。
大勢の子供を守りながら戦う事は匡近が一番恐れていた事態でもあった。
風の呼吸に一点集中で攻撃できる型はない。
それが風というものだから。
それでも下弦の鬼に子供達の命が危険に晒されていれば、助けなければならない。
「匡近ァ。この状況でガタガタ抜かすすんじゃねェぞ」
瞬時に実弥のやろうとしている事を匡近は察する。本当は止めたい。でも、他に良い策は浮かばなかった。匡近の「分かった」の声と共に実弥の腕の上を刀が滑る。
流れ落ちるその赤に下弦の鬼の目は子供から離れ釘付けだ。
「ほらよ、お前らの大好きな稀血ダァァ
転がってる餓鬼共の血肉より数千倍魅力あるんじゃねぇかぁ??」
鬼の口の端から涎が溢れおちそうになり、腕で拭いながら実弥に向かってよろよろと近づいてくる。子供を蹴っても、踏んでもお構いなしである。実弥の血しか見えていない。
『稀血、、稀血、、』
「はっ!足元おぼつかねェなァァ
斬ってくれって言ってる様なもんだろォ!!」
『寄越せぇぇえええ!』
「爪々・科斗風っ!」
実弥へと向かっていく鬼へと匡近が刀を振るう。しかし、刀が鬼を捉える事は叶わなかった。目の前に居たはずの鬼がいない。隠れる場所など無いはずのこの場所で。
「どこ行きやがったァァ!!」
『捕まえたっ!!僕の稀血ぃ!!』
鬼の声に、匡近が見たものは実弥の後ろに立ち、左手の鋭い爪を首元に突き立て、右手で右手首を掴み上げ、実弥の血に舌を這わせる姿だった。頬を染めて酔いしれるその口は饒舌だ。
「チッ!!」
『不思議だねぇ。僕はどうして後ろに居るんだろうねぇ。
答えは簡単。本を移動して来たのさ。
少なくはなったけど、まだ僕の本はあるからねぇ。
あ!鬼女(おにめ)の食料君は動かないでね。じゃ無いと、僕がこの鬼狩りの首を刈っちゃうよ』
ニヤリと怪しい笑みが浮かぶ。
ーーーーーー
四、五回ほど小包丁を突き立てられただろうか。
意識を手放す事が出来ていたならずっと楽だっただろう。でも、楽を選べば女の子を手放してしまう。そうなればこの小包丁が向けられていたのは、、、考えるだけでも嫌な気がしてしまう。未だに腕から抜け出そうとする少女。もう本当に勘弁して欲しい。
もう血が結構流れてしまったのだ。
鬼の子の元には小さな血溜まりが出来ていた。
ーー匡近、さね、、鬼はどうなった?
切望を込めた視線の先では、実弥が下弦の鬼に捕まり、匡近が手を出せずにいる姿。
あの鬼を斬ってもらわなくては、子供達を助ける事ができない。また、誰かの弟が、妹が、きょうだいが引き裂かれてしまう。そんな事は許せない。許さない。でも、自分には鬼を倒す事はできない。
湧き上がる怒り、それは実弥の首元。
ーー……私の手で、、人を、傷つけるな…
切り離され、奪われたとしても、あの左手は自分のものだった。その手が害を与えようとしている。それは受け入れ難い状況だった。
ーー………お願い。残っていて、、
「ごめんね。少しだけ寝ててね」
鬼の子は抱き止めていた少女への腕を緩め、離れたその体が背を向けた瞬間に首元に手刀を打ち込むと少女は床に倒れ込んだ。
人間に手を上げる事は避けていた鬼の子は、僅かに浮かぶ不安を払拭する為、少女の息を確認し、ふぅと一息吐き出す。
懐から懐紙を取り出し両手を乗せた。
ーー最初に書いた左手の術式が残っていればまだ手助けできる。
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